コチラの記事を読んで、久しぶりに『確かになぁ』と考えさせられた。
僕自身、実は満点を取ることに何のモチベーションも感じてなかったので、その価値について考えてみると、それを見出すのにかなり難儀した。
さてさて。
元の記事では、『学力は高ければ高いほど良いというのは本当か?』といった問題提起もあり、そちらも面白かったのだが・・。
今日は、『100点の価値』に絞り、自分の実体験や生徒の様子を通じて思う、僕なりの考えをつらつらと書いてみようと思う。
小学校のテストの100点は、確かに気分が良いかも。
満点とは、優等生の証だ。少なくとも、そういうイメージである。それこそ、ドラえもんに出てくる出木杉くんのキャラ付けを見てもそう思う。
ぶっちゃけ小6くらいまでは、『周りが喜ぶ』とか、『周りより点が高い』が、十分なモチベーションになる。
自分の信念とか、そういうのを心に構築するにはまだ早いからだ。みんなが良いと言うものが良くて、かっこいいというものがかっこいい。
将来のなりたい職業ランキングを見ていても、そう感じないだろうか?
しかも、テストは問題の構成が極めてシンプルで、言っちゃなんだが簡単なので、努力がストレートに、バンバンと報われる。
すると、脳がハイになる。努力が報われると、快感を覚えるのは、脳がそういうメカニズムになっているかららしい。
小学校のテストは、子どもを勉強好きにさせるという目的があるのなら、割とそれに合致している気がしている。
―だが、それがズレると、『100点』は難儀な代物と化す。
ズレるとはどういうことか。それは、『100点を取ることが目的』になり、同時に『100点じゃないと価値が無い』と信じ込むことだ。
その弊害は、以下にまとめてみる。
ハネ上がる『当たり前』の水準。
100点当たり前モードは、大体中学校最初のテストで終わりを迎える。
アルファベットや、正の数負の数の計算だけが試験範囲だと、少しは粘れるが・・・。だんだんとそれは崩れていく。
理由は、単純に難度が増すのと、テストそのものの頻度が減り、範囲が膨大になるためだ。
すると、『100点が当たり前』から、『100点取れない方が当たり前』へと変わっていく。
ここで大抵の生徒は折り合いをつけて、『100点は無理だけど、これは下回れない数値』を落としどころにして、『現実』を学んでいく。
僕もそうだ。『80点でいいやー』と、早々に切り替えた。(その内6割とかになっちゃうのだが)
・・・・しかし、それに失敗したらどうなるか。
失敗している状態とは、実は先も述べたが、『100点を取ることが目的』になり、同時に『100点じゃないと価値が無い』と信じ込むモードである。
こうなるとタチが悪い。
『100点が当たり前なのに取れない・・』
↓
『俺には能力が無い・・』
↓
傷つく自尊心、失われるやる気
↓
そして下がる成績、はじめに戻る
―ちょっと悲観的過ぎるかもしれないが、程度の差こそあれ、『当たり前』を下回ることは、『自尊心の低下』を生む。
中学生前半は、『100点を取ることの価値』が高まると同時に微妙になるタイミングとも言えそうだ。
さて。
100点(≒満点)を取れる人の数は、当然だがテストが難度を増すごとに激減していく。
僕の住む県の公立高校入試だと、今年は各科目で数名~数十名しか満点がおらず、国語に至っては満点が居なかった。
大学入試のセンター試験も同じだ。あれだけの母数がありながら、国語や英語の満点ホルダーは0.1%くらいと聞いたこともある。
つまり、難度が高いテストの満点とは、プロ野球選手になるよりも下手すれば難しいくらいだと言える。
―まぁ、本気でこういったテストで満点を取ろうと鼻息荒くする生徒はほとんどいないだろうが・・・。
『満点』に価値を置きすぎると、巡り巡って大きな挫折を引き起こすのは時間の問題、そう考えて間違いなさそうだ。
話がちょいと脱線したので無理やり戻してみる。
僕は、小学校~中学1年までは、100点を目指すことに、勉強への意欲を高めるといった恩恵があると感じる。
しかし、そこから先は、『折り合い』をきちんとつけないと、かえって自分を苦しめてしまうかも。
という具合である。
ぶっちゃけ生徒の高すぎる目標を正せるのは、冷静に力量を見れる大人である。当人がいずれ・・というのは迂遠すぎる。
『よくわからないまま100点を目指し』、『結果猛烈なマイナスの影響を食らっている』なら、じっくり面談をしてでも止めるべきだ。
―こう考えると、『100点』を取り続けることでメリットがあるのは、ぶっちゃけ心がどこか子どもである間だけなのかもな、と思わされる。
『昨日の自分』より『今日の自分』という日々を積み重ね続けることは、どこかの誰かが決めた『100点』よりも尊い。
好きなことに、熱中できることに打ち込むことは、取りたくもない『100点』を取るための時間よりも楽しい。
一人前として次のステップに行きたいのなら、『100点』という幻想は頃合いを見て捨て去るべきということなのかもしれない。
なんか禅問答みたいだが、結論らしきものが出たので僕は満足である。
―余談だが、もしあなたがどこか完璧主義で、些細なほころびや手抜きも許せないタイプなのだとしたら・・
悪いことは言わない。鬱病になる前に、良い感じの手抜きを学んでおこう。
完璧主義がたたり心を壊す寸前まで行った、僕からのお願いである。
終わりに。
ということで、読み返すとかなり抽象的な論になっていると気付いた。
最後の最後で、もう一度まとめてみると・・・
努力が報われる喜びや、勉強が好きになるきっかけを得るのに、確かに『100点』は有意義と言える。
しかし、突き詰めればとてつもない挫折が待っているのは確実。
次のステップへ成長するには、『100点』を目指さないことに大きな意義が生まれる。
という具合である。
僕自身、人生ずっと100点という絵空事を諦めてから、人生がとてもラクに、そして楽しくなった。
そしてそれにより、世間から見れば50点くらいのラインにも、『いや、俺からすれば100点だし』という満足が得られるようにもなった。
『世間の100点』を諦めれば、『自分なりの100点』が見える。
最後の最後でなんかカッチョイイフレーズができたが・・・。
アラサーの独り語り、どこか響くところがあれば嬉しい。それでは今日はこの辺で。