『自分で考えろ!』というフレーズを言われたことは無いだろうか。僕は何度もある。
その度に感じていたのは、言い表せぬ屈辱と申し訳なさ、或いはストレス、そして自分で答えの出せない自分への劣等感だ。
つまり、質問した側として、『自分で考えろ!』はある意味"地獄のフレーズ"だと言える。
・・・・・・だが、ここで視点を変えてみてほしい。
『自分が教える側』だとしたら、『自分で考えろ!』というフレーズの意味合いが変わるのでは無かろうか?
あまりにつまらない質問を振り払う。忙しい時の質問を受け流せる。アクティブラーニングしてるぜ俺!という感覚を得られる。
つまり、大変便利な"天国のフレーズ"に様変わりするのだ。そしてこの『自分で考えろ』という言葉、実際に常用している方は未だに多いという。
―乱発すればするほど、数多くのかけがえのないものを失うにも関わらず、だ。
僕は、『自分で考えろ』という言葉は、教える側の"敗北宣言"とまで考え、最後の最後まで使わないよう自戒し続けている。
今日はそれについてのお話である。
『自分で考えろ』の副作用。
困ったもので、『自分で考えろ』というセリフを吐きまくる人は、それが正しいと考えて使っていることが多いらしい。
『かわいい子には旅をさせよ』とか、『獅子は我が子を千尋の谷に落とす』という、厳しさが成長を生むみたいな言葉を信じているのだろうか。
―ハッキリ言うが、持っている『知識』が少ない状態で、自分の頭で考えた結果出てくるもの、それこそが『質問』だと僕は思う。
全く分からない→だから聞こうという判断もまた、能動的な学習の一環だ。それを『自分で考えろ』で突っぱねるのは・・。もう、言葉が出ない。
そして結果、生徒の心に傷を残す。或いは、講師としての信頼を大きく失う。
学校の先生が嫌いだったり、他塾から移ってきたりした生徒が、その不信感の原因として『質問を無下にされた』というのをよく挙げるくらいだ。
教える側は確かに楽だが、その副作用たるや半端じゃないモノがある。
だからこそ、『自分で考えろ』というセリフは、『ボクはコレをアナタに教える能力がありません』と同義であると考えておくくらいがちょうどいい。
皆様も、信頼を失いたくなければ、絶対に気を付けるべきだ。
では、『自分で考えさせる』には、どうしたらいいだろうか?
まず、質問の種類を分類したうえで、それぞれを考えてみよう。
最初に、『いや、それくらい調べたら出るやろ』というくらい、ヒネリが無い場合。例えば、『necessary』ってどういう意味?みたいな。
こういう時は、答えてあげるのが一番早いが、こんなやり取りが続けば、下手するとコチラを便利屋さん扱いし始めるので考え物だ。
なのでこの場合、『調べ方』を教えるのが良いと思う。
辞書を貸したり、『解答見た?』と聞いたり。
『自分で考えろ』と、『自分で調べなさい』は、似ているようで全く違う。
情報網が発達しまくった昨今だ。『情報の調べ方』を身に付けさせるのも、社会を生き抜くうえで大事な指導だと感じる。
では次に、例えば応用問題が全然分からないといった、コチラに全部お任せパターンを考えてみよう。
まず、『どこまでわかっているのか』、或いは『どこからわからなくなったか』を丁寧に聞いていく。
たまに質問の意味を完全に履き違えている場合もあるが、途中式のどこかが間違ってたり、文法が分からず訳せなかったりといったケースが多い。
そして、ここからが肝心。
コチラが出すのはヒントだけに留め、どんどん答えに自分で近付いてもらおう。
基本の力が身についてさえいれば、基本公式や文法の解説を挟みつつ、問題に当てはめていくことで、少しずつ進むはずだ。
要は、質問を通じて、『思考のプロセス』を伝えたい。これこそが、広義の『自分で考える力』の土台となる。
なかなか時間が取れないこともあるだろうが、そういう時は自分の空いている時間を伝えたり、出来る限りを教えたりと、最低限の誠意は見せるべきだ。
決して無下に扱うことなかれ。
で、最後。これは、自分の手に負えない範疇の質問が来た場合。
僕ならとりあえず、軽く謝ったうえで、次善策を考える。
まず、それに対応できる講師が居るなら、すぐに充てるか、LINEで訊く。いなければ、参考書を貸し出す。それも厳しいなら、ネットで探す。
とにかく、『自分で考えろ』という言葉以外に尽くせる手を尽くすのだ。
仮に上手くいかなくても、最悪『努力はしてくれた』という想いは伝わる。そう信じて。
僕はそれくらい、『自分で考えろ』とは言いたくないのである。
終わりに。
冷静に考えてほしいのだが、皆様はいつから『自分で考えられるようになった』だろうか。
―答えに窮するのではと思う。理由は簡単で、『自分で考えろ』というセリフそのものが、抽象的過ぎるからだ。
抽象的過ぎる回答で煙に巻くのは、ぶっちゃけ耳ざわりがすごくいい。だが、それを受けた者は、ちゃんと不信感を抱くのでご安心を。
ここに書いたことで、僕が受けた心の傷を同じそれを負う方が減ってくれればいい。
そんなささやかな願いをもって、今日は終わりとする。