精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

平等を突き詰めると、『優等生』ほど、『頑張ることのバカバカしさ』を学ぶ。

いきなりハッキリ言ってしまうが、僕は『頑張ったら報われる』という言葉に違和感しか覚えない。だから生徒にも言わない。

 

むしろ声掛けとして、自分の中でタブー視している程だ。この言葉を全力でプッシュすると、多分出来るヤツほど『手抜き』を学ぶ

 

その理由は極めてシンプル。

 

『今の日本社会の大体は、頑張ったら報われるようになっていないから』である。

 

特に最近、経済学の本や、色んな議論を巻き起こしたコラムを読んで、その意を強くした。

 

ということで今日はそれについて書いてみる。

 

 

 

頑張ったら罰金。

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中3の公民で習う語句に、累進課税という制度がある。平たく言えば、『年収が高い人ほど高い税金を納めてね』という具合。

 

習った当時は、『そりゃそうだ』と、ぶっちゃけ思った。生徒の大半も、『まぁそりゃそうだよね』と考えている。

 

だが、冷静に考えてみてほしい。莫大な遺産を相続したり、違法なシノギをしたりしていない限り、年収が高い人というのはどういう人だろうか。

 

僕は、それこそ『世の中に価値あるモノを生み出し続けるために頑張った人たち』だと考えている。

 

となれば、この『累進課税』という制度を無茶苦茶ひねくれた言い方で捉えなおすと・・

 

『頑張れば頑張るほど、税金として持っていかれる額がどんどん増える!!』となる。ここまでドライに考える人が居るのはどこまで居るか分からないけど。

 

昔何かのコピペで、所得税』のことを『働いたら罰金』と言っているのを見た。言い得て妙だと思う。

 

さてさて。

 

この『累進課税制度』の誤算は、加速し続けているグローバル化だ。

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国外の情報もバンバン入るし、移住のコストも大幅に減った。

 

結果、『日本で稼いだらめちゃ持ってかれるよなぁ』と思った優秀な方々や経営者が、日本を出るという選択をすることも増えているのだ。

 

そして高額納税者が減ったことにより、低所得者へ納税の負担が回ってきている。消費増税は、ぶっちゃけ『そうなるよな』と思っていた。

 

もちろん『累進課税』だけが全ての元凶とは言わないが、『頑張るほど負担が増える』という構図なのもまた事実。

 

・・・余談だが、日本はアジアで一番豊かな国では、もはやない

 

一人当たりのGDP(≒超乱暴に言えば、国民一人が一年間で生んだモノの量)で換算すれば、アジア4位である。

ecodb.net

 

逆に、税率があまり高くなく、富裕層や企業の誘致に成功したシンガポールやマレーシアは、近年急速に成長し続けている

 

今の日本の『頑張る人に実は報いていない制度』の負の面が、ありありと浮き彫りになっている気がしてならない。

 

※もっと色々知りたい方はコチラ↓

www.nenshuu.net

the-owner.jp

venture-finance.jp

 

頑張ったご褒美は、『仕事』。

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たまに英語の長文問題のテーマにもなるのだが、『日本は農耕民族だから助け合いの意識が強い!』なんて話を聞く。

 

『困っている人は助けましょう』というのは確かに対人関係の基本だし、それの究極系こそがビジネスなので、そこは否定しない。

 

だが問題は、その意識が強すぎる時だ。

 

当たり前だが、優秀な生徒や人間は、与えられたタスクやノルマをさっさと終わらせてしまう。

 

ぶっちゃけ僕は、その空き時間は頑張りで入手したのだから、先に進むなり、早く帰るなりで自由に使えばいいのにと感じている。

 

だが、例えば学校や塾の授業では、どうしても『出来の悪い方』に目が向いてしまう。だから、早く終わっても、『待て』となる。

 

或いは、例えば職場なら、『手空いた?じゃ、この仕事よろしく』と、他のタスクが増えることも多い。

 

僕もかなり気を付けてはいるのだが、概して優等生が全力を出すほど、彼らはその報酬を得られないのだ。

 

頑張った報酬が仕事とは、ただの皮肉である。だが、『助け合いの精神!』という錦の御旗を掲げられると、従わねばいけない気がしてくるから不思議だ。

 

こういう状況が強いところだと、早く終わっても終わってないフリをしたり、仕事をしているフリをしたりと、『手抜き』を絶対に彼らは学ぶ

 

結果、彼らの生産性を確実に潰してしまう。僕は正直、大事なのはそれに対する発破でなく、彼らが得をするようなシステムだと思う。

 

皆が言う『公平』は、出る杭を打って平らにするというニュアンスだ。叩かれる優等生にとっては『不公平』である。

 

―余談だが、友人に、有名な中高一貫校へ受験で受かり、そのまま某有名私立大学に進み、後に結構有名な銀行へ勤めたヤツが居る。

 

だがそいつは、最近それを辞めた。理由を聞くと、『仕事以外の派閥だのなんだのがストレス過ぎて、神経壊しそうになったから』だという。

 

そして今、『頑張るのがアホくさいからトントンでいいや』という理由で、彼は公務員を目指し勉強中だ。

 

僕の周りだけかもしれないが、僕が優秀と思うヤツほど、何故か公務員を目指す傾向がある。

 

公務員という仕事は否定しないが、その動機が『安定・クビなし・割と楽』というのが大半なのが気がかりである

 

頑張ることのバカバカしさは、優秀な人物の間で、かなり自然に浸透してしまっているのかもしれない。

 

それを踏まえて一塾講師の僕が思うこと。

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ぶっちゃけここまでの話は、何百年にもわたり日本で浸透してきた『伝統や文化』のレベルのことなので、僕が生きている間の改善は難しいハズだ。

 

なので、今日は折衷案について考えたいと思う。とりあえず、『教育』に絞ったうえで。

 

さてさて。

 

常々思うのだが、指導に際し特別なケアが必要な生徒は、『学習がとても苦手』な子だけではないと思う。

 

それは、いわゆる『浮きこぼれだ。あまりにも突出しているが故、逆に横並びの教育カリキュラムが合わないタイプ。

 

これらのパターンであるなら、その子たちに合った別のカリキュラムを、別個に指導する必要があるだろう。

 

だが、この負担を、ただでさえ激務とされる学校および教員に押し付けるのは絶対にダメだ。うつ病患者を増やすだけである。

 

とはいえ、財政悪化に頭を抱える自治体だらけなので、がむしゃらに教員の採用数を増やすわけにもいかないだろう。

 

―となれば、僕はここに、塾の存在意義がある気がしてならない。

 

受験対策とか、定期テストで点をとるためといったニーズだけで塾を運営するのは、近いうちに必ず限界が来る。

 

別個にケアが必要な層の教育については、私企業と分担するのがある種健全ではなかろうか。

 

世の中には、教員免許を持たない各科目のエキスパートはゴロゴロしている。例えば、引退した社長に政治経済を教わるとか、超面白そうだ。

 

また、様々な特性を持った生徒と接するプロも、どちらかと言えば私企業に数多く勤めているイメージがある。

 

『必要ならば、各家庭でどうぞ』という放任ではなく、最初から学校と私企業でタッグを組んでおくのがベターではと、僕は強く感じている。

 

―となれば、義務教育のカリキュラムとはどうあるべきかという問題にも突っ込んでくる。ここは流石に深く考えているワケではないが・・・。

 

例えばもっと積極的に飛び級を認めてあげるとか、いっそ義務教育は資格試験みたいにして、受かりさえすればOKという裁量を認めるかだと思う。

 

この辺は、年始の休暇の宿題として、もっと深く考えてみる。

 

終わりに 及び 推薦図書。

 

ということで今日は珍しく、結構重いテーマに突っ込んでみた。論理展開が難しく、途中休憩を挟んだり散歩したりしつつ、何とか書いたという感じ。

 

バッシングだろうが議論だろうが、何かしらの考えのきっかけになれば、この記事を書いた見返りとしては超十分だ。

 

尚、この辺りのテーマに興味が湧いた方は、記事の最後にオススメの本を紹介しておくので、空き時間に読んでみてはいかがだろうか。

 

それをもって終わりとする。それでは今日はこの辺で。