僕も教職のはしくれの人間だが、最近生徒に『ブラックじゃん』と言われまくり、少し萎えている。
確かに、『教師 ブラック』で検索すると、不穏なサイトばっかりヒットするので、世間のイメージも、その実情も、そうなのだろう。
確かにその仕事量の多さは半端じゃないだろうし、のしかかる責任の重さも壮絶だろう。はしくれの僕でさえ、それは感じるところだ。
だが果たして、業務をスリム化できる余地はそんなにも残されていないのだろうか?手抜きとはそこまで悪なのだろうか?
今日は『教師』ではない僕が、門外漢として好き放題この辺を書いてみようと思う。
モンタージュ写真は『Picasa』で一発。
オフィシャルなサービスは終了してしまったが、『Picasa』は一撃でモンタージュ写真を作れる超時短ソフトの1つである。
例えば、いちいち印刷したものやペイントソフトで写真の切り貼りなんて、ぶっちゃけアホとさえ感じてしまう。
写真をまずはドカッと取り込んで、色々なボタンをポチポチすることで、以下のようなモンタージュ写真も簡単に作ることができるためだ。作業時間は10分もない。
https://www.gocustomized.fr/blog/faire-un-montage-photo-en-5-etapes-avec-picasa/
-これは何も画像編集に限った話ではなく、アプリやフリーソフトを色々調べれば、時間や労力を劇的に減らすツールは結構ゴロゴロしているものだ。
まずは、【何でも自分でやらなければ】という思い込みを捨てるところから、現状打破は始まるのではなかろうか。
せっかく作ったプリントは、どんどんデータ化。
印刷したプリントを、ハサミで切ってノリで貼るような作業をする方をたまに見る。申し訳ないが、時間が勿体ないという印象しか抱かない。
僕はせっかく授業プリントを作るなら、その労力をどんどんと良い意味で使いまわしたいと考えている。だから、必ず『データ』にしておく。
例えば、今や英文ならかなりの精度で文字起こしできる『Google ドキュメント』なる優れものさえ、無料で利用できる状況なのだ。
手書きのありがたみとか、切り貼りしたぬくもりとか、ワケの分からないものに固執する必要は絶対に無い。
何度でもリサイクルできる形で資料を残す。これを心掛けてみてはいかがだろうか。
良い授業はどんどんパクれ!
授業をイチから考えるのは、確かに腕の見せ所だし、やりがいを感じる分野である。そこは認める。
だが、全ての単元、科目でそうだろうか?白状すれば、僕が得意な英語にも、教えるという意味では苦手な単元がちょこちょこある。
しかもそもそも、授業そのものが全然気乗りしない場面だってあることだろう。例えば模擬授業とか、授業参観とか。少なくとも僕は嫌だ。
そういう時は、思い切って、素晴らしいコンテンツをパクるのをオススメする。これはインターネットが発達した強みだろう。
例を挙げれば、最近の有名どころだと、以下のチャンネルが流行っている。
-その他にも、授業の語り口調を再現した参考書等、アイデアを拝借できる素材は市場にも巷にもあふれかえっている。
ヘンなオリジナリティよりも、優れた既視感だ。僕は特に自分の授業に誇りなど持っていないのでそう考えているのだが、どうだろうか。
『課題の分離』マインドを育む。
以前ちょろっと書いたが、アドラー心理学の重要な考えの1つに、『課題の分離』というのがある。
これをすごく乱暴に解釈すれば、
自分にコントロールできないことを意識して気にしない
といった感じである。
例えば、相手が自分のことを好きになるか嫌いになるかは自分にはどうしようもないので、そもそも重要視しない、という感じ。
敏腕編集者の箕輪厚介氏も、この動画内でその旨の発言をしている。
しかしこういうのを言うと、『無責任だ!』『生徒の立場を第一に考えろ!』という風に、よくわかっていない人ががなり立ててくるかもしれない。
もちろんその声に従うのもアリだ。しかし、その声に従い続けて心が折れた人の体験談を読むなどして、その末路のヤバさも知っておいてほしい。
一応僕自身も、その生徒の気持ちに寄り添えるような配慮は心掛けているが、背負い込むことだけは意識的にカットしている。
それは何も生徒を切り捨てるという意味でなく、例えば誰かと情報を共有するなど、負担を分散するという感覚に近い。
人情溢れる講師も勿論素敵だが、メンタルのケアを怠らないよう強く願っている。
-という風に、今日はちょっぴり好き放題書いてみた。門外漢だからこそ、気付けることとかもある。そう思っているからだ。
何かヒントになることはあっただろうか?そうであっても、そうでなくても、とりあえずそこは課題の分離で気に病まないこととする。
では今日はこの辺で。