こないだ、私企業だからこそできる遊びを生徒とやった。(決してサボっているわけではない)
まず、生徒に英語のプリントを配った。問題数は80問程度。実際英語嫌いの生徒は多く、『えー!?』の輪唱が教室に響く。
このタイミングで、僕は、『勝負』を吹っ掛けた。
『俺も一緒に苦手科目のプリントを解くから、俺の正答率を超えたらジュース買うたるわ!!』
という感じ。ちなみに僕は、理科が苦手だ。中学の時は得意だったが、何故か記憶の9割が頭から消えた。
そんなこんなで始まった、大人げないのかそうじゃないのかよくわからない戦い。意外な話だが、そこでかなり濃く、有意義な学びを僕は得た。
子育てだの授業だので、どうしても『分かってる人』目線に偏りがちな皆さんに是非とも伝えたい教訓。頑張って言葉にしたいと思う。
①ことごとく自信を粉砕される。
僕が理科を不得意とする理由は、マジで頭から知識が消えたから、というのが大きい。
したがって、公式を組み合わせれば答えが出る数学とかとは違い、このタイプはいくら考えても無駄なのだ。
時折常識で解ける問題も混ざってはいたが・・・やはり解けない問題が並ぶことは、メンタルへのダメージが非常に大きい。
白状すると、実力テストの序盤で寝てる生徒を見ると、正直『最後まで諦めるなよ!』とあまり良い心象を抱いていなかった。
だが、自分が叩きのめされた経験を通じて、少しくらいは軟化した考えを持てるようにしようと、そう思えた。
②噛み砕かれていない説明が全く頭に入らない。
一応絶望の演習時間を終えた後、解説を読んではみた。そこで驚いた。全然頭に入らないのだ!!
先の自信を折られまくる時間を通じて、気づけば『どうせわかんねーし』『読んでもムダだし』というマインドセットがなされたらしい。
これはかなり根深い問題だ。苦手科目は思い込みから始まる・・という話が、今なら身に染みて分かる。
『どうせわからない』と思って聞かない
→聞かないから分からない
このループに突っ込んだら厄介だ。しかも、大体生徒はそれに突っ込んだ状態で塾に通ってき始めるので、なおのこと厄介だ。
熱い言葉で振り向かせる、徹底した説明で理解させる、小さな成功体験を積ませる、ピエロを演じて即効性のあるテクをとりあえず伝える・・・
手段はどうあれ、『分かる感覚』を積ませるのは滅茶苦茶大変な話だと、再度実感させられた。覚悟が強くなった気がする。
『この説明を聞いたらわかるよ!』というメッセージを伝えるため、例えばかなり小刻みに小テストを混ぜるなどの工夫をしようかなと、今は考えている。
③それでも分かるとやっぱり嬉しい。
だがそこまでメタクソにやられても、それなりに自信があって書いた問題が合っていたり、二択で博打を打った記号問題が合っていたりすると・・・。
どうにも嬉しかったのを覚えている。学習の原体験は、やはり『分かる→解ける』がセットなのだろう。
どこか懐かしくも、大切なものを再発見できた気分である。
④効果ありとされる勉強法は、マジでそうだと実感。
この経験を通じて、演習はインプットありきというのを強く痛感させられた。
知識が0で理解もできていないモノの演習は、断言するがただの自己満足、時間の無駄だと悟ったためだ。教科書か何かを横に置いた状態での演習も同様だろう。
今まではこれを受け売りで生徒に伝えていた感覚がどうにも拭えなかったが、体験ができた以上、かなり説得力をもってこれを普及できるのではと思う。
得意単元ならさておき、苦手単元こそ、インプットの時間をなめたらいけない。次回授業は、その導入で始めてみようっと。
終わりに。
で、結果。
僕はクラスの8割の生徒に大敗を喫し、1500円弱を吹っ飛ばす羽目になってしまった。
―が、これもまた授業料だ。むしろ、そんなに安くて良いんですか?という気持ちである。
得意なことで困っている人に貢献するのは確かに仕事の本質だ。しかし、説明を生業にするのなら、苦手なそれを聞く側の視点に立つのも絶対に欠かせない。
多少荒療治だが、その辺を見失っているなら、苦手科目の問題を解いてみたらいい。余計なプライドも無くせるので、一石二鳥だ。
ということで皆様も、苦手科目に取り組んでいる生徒を見たら、或いは彼ら彼女らに接するのなら、
自信も聞く気も弱い状態で、かつ間違いたくないばかりに効果のない学習方法に執着しているかも!
という闇を認識したうえで、
でもまだ分かるようになればバカ伸びする可能性を秘めている!!
という光も覚えておいてほしい。いやぁ、濃い時間でした。
さて、何かシメが少し熱い話になったが、今日はとりあえずこの辺で。