やっぱりどうしても、僕はノート点に懐疑的だ。理由は散々言ってきたので今日は割愛。
別にテーマを自由にしたり、問題演習の答えだけの列挙を許したりという柔軟さがあれば僕はとやかく言わないのだが・・・。
なんと未だに、『板書をそのまま指示通りに写しているか』で評価する先生もいるのだという(中高どちらも事例アリ)。これはちょっと怖い。
こういう『言ったことをとにかく書け!』という考え方は、結局のところ誰も幸せにしない。
そう思うので、今日はそれについて書いてみる。
そもそもそんなん無理だと言っておく。
冷静に考えればわかるのだが、『説明を聞きながらノートに写す』なんてのは無理ゲーだ。
単に、『説明』と『書き写し』を超短いスパンで交互に行っているだけに過ぎない。つまり、どちらも確実に中途半端になる。
『説明』に集中すれば『ノート』がおろそかになり、提出物の点数に傷がつく。
とはいえ、『ノート』に集中すれば、『説明』の理解がおろそかになり、学力の向上という面で影響が出る。
すなわち、どっちに集中しても、生徒にはデメリットが伴うのである。そして、不幸になるのは生徒だけではない。教える側もまた、幸せにはならない。
『ノート』ばかり取らせれば『説明』を聞かなくなり、自学ができるヤツ以外は大体成績に響いてくる。そうなった時の責任を負うのは教師だ。
一方、『適当なノート』の評価という不毛な作業をするのも、全然建設的ではない。だが、『説明の傾聴』を重視すると、こうなるのは目に見える。
やはり『中途半端』な制度では、誰も幸せにならないと言えそうだ。
―さて。ただ愚痴っただけではチラ裏にも程があるので、一応の提案も書いておこう。(これまた何度も書いたことなのだが)
やはりそれぞれに集中するべきですって。
それは、『説明』と『書き取り』を完全に分けるというものだ。
僕は最近意識して、『説明中』にノートは取らせていない。まずはとにかく、説明を聞かせるためだ。
そして一通り説明が終わったら、5分程度の尺で、『ノートを取る』ように言う。
ただこの際も、
『俺の書き方がしっくりこなかったり、説明で引っかかるところがあったりした部分は、いくらでも足したり引いたり変えたりしていいからな』
という指示をだす。つまり、ノートへ"どう"書きとるかの裁量は生徒に渡すのだ。
自分なりに頭を使うよう声掛けすることで、一応アクティブラーニングの必須要素は満たす。ただ中途半端にさせるよりはマシだと思うのだが、どうだろう。
ということで、結構生意気なことを書いてみた。
僕は『良い子』になりきれず割を食ってきた人間なので、やはりどうしても『ノート点』は『ヘンなシステム』としか思えない。
『結果』ではなく『過程だけ』を評価し続けると、いずれ頑張ることが目的になる人間になりそうで少し怖い。考え過ぎだろうか。
僕としては、こういう謎の制度に疑問を持つ人がもっと増えれば嬉しく思う。まぁ、あまりに小さい一歩だとは思うけれど。
それでは今日はこの辺で。