時たま、ふと気になる事柄や専門知識について、ネットサーフィンしてリサーチしている。(これはもはや職業病)
その際どうしても目を引かれるのが、『わかりやすく解説!』とか、そういうフレーズが付いた記事だ。わかりやすいのはありがたい。早速クリック。
―でだ。僕が劣等感を覚えているかもというバイアスを除外して考えても・・・。その3つに1つは、正直わかりづらいのだ。
何というか、説明に専門用語が出てきたり、例え話が皆無だったりと、僕がつんのめるポイントが多い。結局、理解しきれずに別のソースに当たることもしばしばだ。
しかし、シェア数・イイネ数が大体の場合で多いので、自分がバカなだけなのかと少し落ち込んでしまう。
―この経験を通じてふと気付いたのだが、多分僕らの『わかりやすい』と、生徒の『わかりやすい』は、完全に別物だ。
この差異を知らなければ、もしかしたらどっかで大やけどをするかもしれない。というワケで、今日はその気づきを書いてみる。
大人の『わかりやすい』とは?
端的に言うと、『筋道だてられたシンプルなロジックで、伝えたいことまで最短ルートでたどり着ける』という感じだ。
だからこそ、漢語等で短縮できる用語はそれでバンバン圧縮し、なるべく短いフレーズでまとめることが、『わかりやすい!』に繋がっていく。
(例えば、『このピンチを何とかするために必要な計画やアイデア』というところを、『打開策』という感じ。)
尚この場合は、迂遠な例え話を多用したり、専門用語を避けたりすることは『幼稚』とみなされ、評価されない場合が多い。
主にコチラは何かしらの説明会や、プレゼンの舞台で求められる『ロジック』だと言える。
生徒の『わかりやすい』とは?
一方、まだまだ語彙や予備知識が少ない状態の生徒に対して、上記の説明はまず響かない。テーマに対する説明が理解できなくなるからだ。
ということで、対生徒においては、『いかにすでに知っていることでイメージさせるか』が要だと僕は考えている。
つまり、『例え話』の質が求められるのだ。巷でよく言われる教師・講師の腕とは、正直この『例え話』の巧さだとさえ、僕は感じている程だ。
ぶっちゃけ対大人の場合より、各専門用語を深く、具体的に、平易な言葉で理解している必要があるため、こっちの方が難度が高い。(少なくとも僕は)
―とはいえ、この手法をまるっと大人の話に流用すれば、たぶん『くどい』と言われる。評価が対象によって変わるからこそ、僕は別物だと思うのだ。
つまり、始めの僕の『わかりづらい』は、生徒目線の話だったという。
ということで、記事の最初に書いた出来事は、その記事を書いた人が『対大人』で記したのに、僕が『無知な人』目線で読んだがために起きたズレなのだ。
相手がどこまで知識を持っているかという意識は、時として大きく抜ける。まして、自分がどちらの目線で情報を得ようとしているかなど、言わずもがなだ。
また一つ、些細な出来事から指導のヒントを得た僕であった。
―余談だが、そんな僕が調べたのは、『入籍』と『結婚』の違いである。何度読んでも、なんかしっくりこない。誰か教えてください。