精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

『ディスカッション』が有意義な時間なのは事実ですが、『塾』でやるべきかどうかは超悩む。

コロナの影響からか、最近あちこちで『感情むき出し』のコメントが目立つ気がする。

(載せるまでもないくらい多いので割愛)

 

こういうのを見ていると、講師という仕事柄、『こんな世の中だし、生徒にどんなスキルが必要か』をついつい考えてしまう。

 

そして今のところ僕は、それは『議論の練習』もとい『ディスカッション』だと思っている。(討論ではないので注意)

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 これは『国語』や『総合』、『道徳』等のサブで行うのではなく、可能ならメインの時間に据えてほしいほどだ。理由は簡単で、それを独学で学ぶのはほぼ不可能だからだ。

 

ということで今日は、それらの理由と、最後に僕が勝手に抱えているジレンマを、まとめて書いてやろうと思う。

 

 

なぜ『議論の練習』が必要なのか?

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簡単に言えば、日本は『議論』を学ぶ機会が少ないからだ。だからか、好き勝手話したり、ただ聞いたりすることがそれだと勘違いしている方が大変多い。

例えば、世界的に見ても日本人は『議論が下手くそ』だと言われている。これの正体は能力云々じゃなく、本来『前提』とされる知識が、大変少ないという意味だと感じる。

  

 では、その『議論が下手くそ』の中身は何なのか。簡単にまとめてみよう。

 

①『批判』と『個人攻撃』を同義と捉えてしまう。

 

例えばあなたが、『コロナ対策として、人が密集するのを避けるため、徹底的にリモートワークを実施すべきだ』みたいな提案をしたとしよう。

 

それについて、以下のように返されたら、あなたはどう感じるだろうか。

 

『我らの業態を考えると、それは現実的ではない。密集を避けるのが目的なら、例えば一部屋に集まる人数に制限を設けたり、常に換気をしたりすれば良いのでは?』

 

―僕自身も気持ちは分かるのだが、これを『お前の言ってることはクソ』みたいな個人攻撃みたく捉える人は、ハッキリ言って議論下手と言える

 

よく読んでみるとわかるのだが、この発言者は『目的』には同意しているのだ。

 

ただその方法について、別目線の指摘をくれたに過ぎない。(ただし、『現実的ではない』というのは、根拠として極めてあいまいで弱いのだが)

 

相手からコメントを貰うというのに慣れていないと、『異論』なのか『批判』なのか、それとも取り合う価値のない『ヤジ』なのかの判断が付かない。

 

なんでもかんでも個人攻撃と捉えると、次のアクションは怒りや失望であり、議論が進まなくなることは請け合いである。これが多分、『下手』の意味することの1つだ。 

 

 ②『反論』と『揚げ足取り』を区別できない。

 

もう一つ厄介なのがこれだ。『反論』と『揚げ足取り』を区別できず、しかもそれをする自分に誇りを持っている人間は、ものすごくめんどくさい

 

例えば、以下の発言が話題になったとしよう。

 

『コロナウィルス対策のため、休校措置を取ります。その分の出席日数は、夏季休暇で調整します。』

 

それについて、以下の意見が出たとき、反論はどちらだろうか。

 

A『夏季休暇を削らなくても、例えば隔週で土日に授業を実施したり、或いは課題を提出すれば単位として認めるなどの特例を設けるのはどうだろう』

 

B『夏のクソ暑い中授業をしたら、熱中症になっちゃうかもしれないじゃない!そうなったらどうしてくれるのよ!』

 

―問題ないだろう。Aだ。ちなみにBはただのイチャモンである。

 

Bはあくまで『言い負かした感』だけが狙いであり、議論そのものにはあまり興味が無い。(こういう本筋と関係ない粗を『ウィーク・リンク』という)

daigoblog.jp

 

そして意外なほどに、自分の発言が『異論』か『揚げ足取り』かは、指摘されるまで気付けないものだ。これもまた経験と言える。

 

(※余談だが、揚げ足を取られた場合はその都度、本筋に戻すのが正解である。1:1なら面倒なだけだが、他に人がいるなら、それによって少なくとも自分の評価は上がる)

 

―ということでまとめると、まず『批判』を『個人攻撃』と捉えることで、不毛な『感情論』が出てきやすくなってしまう

 

しかも経験値が少ないと、『批判』や『異論』と『揚げ足取り』が区別できないため、変な方向へ議論を紛糾させてしまうこともある。

 

さらに上記のことは練習不足だと誰にでも起こりうるため、全体的に『議論』の練習は、必修として行った方がいい

 

というのが僕の意見である。

 

ではこれを、『塾』でやるのか?

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ここからはただの愚痴。

 

正直このクソ多忙な最中、教職の方にこれ以上負荷はかけられない。導入が決まっても、多分研修会という謎の会議が増えるだけである。

 

では、その辺をどこまで塾が担うかという話になる。あくまで私塾の狙いは、人間力の育成ではなく、各科目の成績を高めることだ。ここはブレてはならない。

 

しかし、ここが難しいところなのだが・・・。

 

僕は『形式』と『テーマ』さえ工夫すれば、塾の授業で成績を高めるという目的のため、『ディスカッション』を取り入れることは可能だと感じている。

 

例えば、いずれやってみたいのが、生徒同士の個別授業だ。

 

こっちの生徒はこの単元を、別の生徒はその単元を、という風に割り振り、20分程度の予習をして、互いに教え合う。

 

時折互いに質問や理解度の確認タイムを設ければ、これも広義の『議論』である。いずれやってみたいのはやまやまだが、いつになるかはわからない。

 

さて。

 

今朝も気づけば定期購読しているメールが来ており、その内容は夥しい感情語とネガティブワードに溢れていた。(僕はそのままその配信を止めた)

 

こういうことを発信してしまう理由はなんだろう?自衛の手段はないものか?

 

起き抜けにそんなことを考えていたら、この記事のネタが浮かんだわけである。

 

正直僕も偉そうなことを書きながら、特に批判を個人攻撃と受け止めるクセがあり、意識しないと簡単にそのフィルターが取れてしまう。

 

日進月歩、先は長いが、色々と諦めてはいけないと感じる次第である。

 

それでは今日はこの辺で。

 

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