今日は思い出話を書いてみる。
知り合いに、『教育』に対し、非常に熱意をもって接していた方がいる。もう何年も会ってないが、その時の彼は『熱狂』とでも形容するべきだと思う。
口を開けば『教育』に関する諸問題への意見を求められ、まだ歴が浅かった僕は毎度毎度たじろいでしまっていたのを覚えている。
勿論、授業への情熱もすごかった。自作のプリントは夥しい数に上り、授業をしている横顔を見れば、すごく活き活きとしているのが傍目にも感じられたものだった。
さて。なんか含みがある書き方をしているが、実はこれには少し気の毒な裏話がある。
彼はそこまで『同僚』や『生徒』、さらには『ご家庭』から評価されていなかったのだ。
当初は『熱意』が強すぎて生徒が引いてるのかなと思っていたのだが、冷静に観察すると、その理由がわかった。
『熱意』のあまり、『相手』が見えていなかったのだ。相手が必要な情報ではなく、こちらが伝えたい話を50分授業する、そんな感じ。
その方は定期テストの話とか、テクニックに当たるものを、『小手先、本質じゃない』と切り捨てていた。
そういう信念からかはわからないが、授業は教科書に出てくる題材を少しだけ絡めた、さながら『人生哲学』の御指南。そんな具合であった。
「自分が正しいと思っていることを完璧に実践しているのに、これが正当に評価されないのはおかしい」と、その人はたまに僕へボソッと愚痴っていたものだ。
そういうのが積もり積もったのか、その人はある日突然仕事を辞めて、今はどこで何をしているのか全くわからない。
―こういう風に、こと『教育』となると、その熱が激しすぎる人を散見する。そしてそういうスタンスが、誰かを幸せにすることは稀だ。
そしてこれは、親子の関係でもあり得ることである。大昔の話だが、僕の同級生に超気の毒なヤツが居た。
親がその子の可能性をとことん信じ抜き、過剰とも言える学習を課していたのだ。それこそ、東京のエリート学校を受ける生徒が解くような問題集をドサドサと。
―だが、どんなに贔屓目にみても、そいつはそこまでの天才では無かった。正直、良くて僕よりちょっと上くらいの学力だったように感じる。
親に圧をかけられ、かといって課題に立ち向かえば自尊心が折られ。そんなループに苦しむ彼を見るたび、子どもながらに心底同情したのを覚えている。
尚、そいつも現在どこで何をしているかは不明である。(少なくとも同じ公立中学校に進学していたのを覚えているけど)
―こう考えると、『誰に向けた、何のための』という問いが抜けた『教育』は、極めて危ない気がしてならない。
冷厳な話だが、人生哲学よりテストの点の取り方のが知りたいし、偏差値70を超える秀才は、持って生まれた才能が無ければ無理だ。
そこを無視して『熱意』だけで物事を突破しようとするのは、断言するがドラマの見過ぎか、全然頭を使っていない証拠だと思う。口は悪いが、色々ナメている。
―これまた色眼鏡な話だが、大体できる生徒を持つご家庭や、指導力に優れた講師は、意外と『熱意』を持っていないことが多い。
これは言い換えれば、現状を色々と客観視できているということなので、例えば様子を見て指導法や教育法を変えるなどして、より効果的な手が打てるのだ。
さて。
哀しいかな、先に挙げた『熱意』に憑りつかれた状態の方は、説得なんて生ぬるいやり方ではまず目を覚まさない。
それこそ、その子が勉強を苦に自傷行為に走るといった、身体に電撃が走るような衝撃を受けねば、その態度は変わらないとみていい。
だから多分、これを冷静に読めている時点で、あなたはいい意味で『熱狂』していないと思う。そしてその冷静さは、皆が浮足立っている今こそ、大事にしてほしい。
僕はこれからも、『意欲』は持つが『熱意』に憑りつかれないという客観性は常に持ち、この仕事を続けていこうと思う。
今一度、この観点から色々考えてみてほしい。
では今日はこの辺で。