精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

この世にマストな『いいからまずはやってみるマインド』を、どう生徒に育ませるか?

僕は『勉強』そのものより、『勉強』を通じて有用なスキルの習得を生徒には意識してほしいと考えているのだが、最近思うその最たるものは『とりあえずの挑戦』だ。

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言葉にするのは簡単だが、この辺は『得られたフィードバックを即活かす力』とか、『自己肯定感』とか色々な要素が絡むため、結構難しい

 

そしてこの考え方は、テストの結果で完璧を求めることと割と相反しており、勉強の習熟度を点数や暗記した数で捉える生徒は、まず育むことが難しい

 

しかし、どう考えてもこの『いいからまずはやってみるマインド』は、変化があまりにも激しく、今後は自分で仕事を創らねばならない世の中にはマストの要素だ。

 

今日はどうやってそれを授業内で育めるか、僕が調べたり実践したりしたことを書いておく。

 

 

『いいからまずはやってみるマインド』の定義とは?

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まずは定義づけから。とりあえず、僕は以下の3点を実践するマインドセットという風に考えている。

 

①自分の中で試作品の段階でも、とりあえず実戦(市場)に投入する

 

②得られたフィードバックをその都度反映させる

 

③7~80点を素早く取ることに注力する

 

例えば、とあるニーズが発生したら、それを100%満たす製品をじっくり考える・・・のではなく、とりあえず7~80点は満たす試作品を市場に投下する感じだ。

 

そこで、もっと機能が欲しい、これは要らないといったフィードバックを得て、『顧客目線』で100点に、後々で仕上げていくというプロセスだ。

 

『小さく生んで大きく育てる』という言葉と、言っていることは少し違うが、雰囲気は似ている。

 

※何故このマインドがこの世において必須なのかピンと来ない場合は、推薦図書を載せておくのでそちらをお読みいただきたし。

 

 

さてさて。残念ながら今の教育では、上記の3点を満たす生徒は得てして『もう少し頑張りましょう』と言われて評価されないと思われる。

 

その理由はシンプルで、今の学校制度が生み出したい人物像と、完全に逆行しているためだ。今度は、それについて述べてみよう。

 

『いいからまずはやってみる』はなぜできないのか?

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さっき僕が挙げた定義に、もし理解が全く無ければ、多分通信簿で付けられちゃうコメントを添えてみよう。

 

①自分の中で試作品の段階でも、とりあえず実戦(市場)に投入する

 

→落ち着きがありません

 

②得られたフィードバックをその都度反映させる

 

→気分屋さんです

 

③7~80点を素早く取ることに注力する

 

→能力はあるんですが努力をしません

 

―相当極端にしたが、もしこの手のコメントが返ってくれば、『あ、僕褒められてる!』等とは誰も感じまい。

 

親にも多分チクリと言われるだろう。周りの大人からもまた然り。気付けば自分のこういう気質はダメだと考え始めて、面白みのない子になる可能性が高い

 

―実は上記の3つのコメントは僕が良く書かれていたことでもあり、周りが求める理想と、自分の理想の折衷には、10代ながら非常に苦労した記憶がある。

 

そんな苦い経験があり、かつこのスキルはマジで要ると考えている僕なので、隙あらば生徒にこれらの感覚を育めるような勉強の仕方等を伝えている

 

場面が許せば、それはご家庭に伝えることもある。以下、その具体的な内容である。

 

『いいからまずはやってみるマインド』実践編。

 

もうやってること①英文和訳や単語の暗記は雑でもヨシ!

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僕は超キッチリと英単語の訳を覚えたり、受験以外でかたっ苦しい英文和訳を書いたりすることに懐疑的だ。よくも悪くも、本質ではない。

 

僕らが書き言葉だけでコミュニケーションを取らないのと同じだ。だから僕は、単語テストや和訳問題について、合格ラインを超甘く設定している。

 

『interesting』を『興味深い』と書かずとも、『おもしろい』で良いじゃないか。

 

『Really?』を『本当ですか?』と書かずとも、『マジで?』で良いじゃないか。

 

『According to the letter, he visited Australia to see a lot of animals.』

 

って英文も、『手紙によれば、彼は数多くの動物を見るために、オーストラリアを訪れたとのことだ。』はカタい。

 

『あいつ、オーストラリアにめっちゃ動物を見に行ったんだって。手紙にそうあったよ』という風に意味を取っても、僕は許す。

 

試験本番は求められる文体にしないと点が貰えないが、それもいつまでもつやら、という話である。

 

もうやってること②部分点は積極的にあげる

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僕は減点方式が大嫌いで、すごくどうでもいいが結婚条件のリストを見るとゲェ吐きそうになるくらいあれも嫌いである。

 

『これをしたら点が引かれる・・・』なんてマインドは、生徒に刷り込ませたくない。だから僕は、どれだけ解答が短かろうが、頓珍漢だろうが『部分点を加算』している。

 

これは主に記述で発生するのだが、本当に一文節でも拾えていれば、僕は1点をプラスする。僕が×を付けるのは、白紙か、相当変なことを書いたときだけである。

 

甘いだろうか?僕はそうは思わないのだが、皆さんはどうだろう。
 

これからやってみたいこと:他者採点

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『失敗から学べ!』というのは聞こえがいいが、僕は自分の失敗に向き合うのは嫌いである。落ち込むからだ。

 

だが、フィードバックとしてこれらの情報が貴重なのも否めない。いいとこどりで、誰も傷付けず学び取るにはどうするか。

 

僕が考えているのは、『他者採点』、つまり『間違い探し』だ。僕が架空の生徒による答案を作り、全員に配り、何が違うか採点させる。(調べるのもOK)

 

実は昔、国語の接続詞ミスを指摘せよというプリントで実験したのだが、反応も効果も上々だったため、広く応用しようと考えていた折だったのだ。

 

知りもしない誰かのミスなら、喜んで向き合えるハズ。そして、自分はここを回避しようという経験値を、要らん凹みもなくゲットできる。

 

僕の労力は少し増えるが、書き物は苦じゃないので、集団授業を再開したらまずやってみたいことである。(アクティブラーニングだし)

 

終わりに。

 

少し思い出話をば。

 

僕の両親はどちらかと言えば放任寄りで、僕の進路にアーダコーダなんてのは基本無かった。(弟に手を焼いていたからかもしれない)

 

僕は自分が宿題をやっている姿を見られた記憶は皆無だし、それでよかったと思っている。おかげで、どこかにまだ、『この答えでええやろ』と踏ん切りがつく自分が居る。

 

積極的な介入は響きだけなら素晴らしいが、それは可能性を狭めるというリスクもある。僕が言っちゃおしまいだが、学歴は無くても死にはしない。

 

そして、飛びぬけた収入を持つ人と、学歴に、特に相関関係はないらしい。(無論、医師とか弁護士といった職業には、高学歴程なりやすいという関係はある)

 

となれば何が大切なのかというと、僕が最初に書いた3つの要素じゃないかなあと、どれもまだまだ弱い僕は考えている。

 

創意工夫の大切さは、昔とは比べ物にならないレベルに高まっている。2~30年前のスケールはおろか、僕らの子ども時代とも既に様変わりしている程だ。

 

長い自粛期間だからこそ、生徒やお子さんの『工夫』は大事にしてほしい。そして、何かに取り組みたいと言って来たら、是非させてあげてほしい。

 

それでは今日は、この辺で。

 

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