思い出したように語るが、僕は英検準1級と1級を持っている。だが、ぶっちゃけそれそのものの恩恵について、日々そこまで感じることは無い。
何故かというと、それを持つ人も、僕より遥かに能力が高い人も、ごまんといるからだ。Youtubeで検索を掛けたら、夥しい数の『1級が教える~』シリーズが出てくる。
上には上がいるという言葉をまざまざと感じさせられる。登っても登っても誰かが先に居る感覚。
―これについて、僕は『高スペックの罠』という風に考えている。『能力』の取得とその『証明』に心血を注ぎ、自分の『価値』を高めようというプロセスだ。
何故罠かというと、これは永遠に一番になれないことを意味するからだ。今日はそれを導入にしつつ、高スペックの『価値』について論じてみる。
高スペックというレッドオーシャン。
実を言うと、自分の価値を『能力』もとい『スペック』に置く人は、僕は結構心配している。その自信は世間が広がれば超たやすく粉砕されるからだ。
東大に受かった人は確かに凄い。だが、ハーバード大に受かった人はもっとすごい。しかも人によっては、東大に受かった秀才より、イケメンの方がすごい。
価値観一つでコロコロ勝敗が変わるため、才能と才能、能力と能力、能力と才能の比べ合いほど不毛なものはない。
だから僕は、比べ合いそのものに、とっくに辟易している。(何度も書いたテーマだからもう書かない)
さて。怖いことに、この価値観にどっぷり浸かると、『他者評価』ばかりを気にし続ける主体性のない人生が待っている。(僕も20代前半まで無意識にハマっていた)
(人に凄いと言われたいから)〇〇を目指します!
という具合。さっきも述べたが、達成できても必ず上の存在が居て、大体はそれが気になり自尊心が満たされないのがオチだ。
こうして自尊心がどんどん渇いていくと、その人は多分別の手段に出る。例えば、『自分自慢』だ。もっと俺を認めろと、声高に主張し始める。
―ここまで来ると想像に難くないが、こういう自慢野郎は面倒としか思われない。『能力』に固執するばかりに、『人となり』に傷がつくとか滑稽である。
さて。そろそろ伝わり始めてるかと思うので、結論をドンと書いておく。
僕は『高スペック"そのもの"』の『価値』は、当人が思っている以上に低い
と考えている。東大にだって、学部ガン無視すれば毎年3000人近くが入学していくのだ。また、学歴がどうでもいいフィールドであれば、そもそも価値は0となる。
―だが、『高スペック』が無意味だというつもりは全くない。むしろ、それは活用次第で非常に高い価値を持つと考えている。矛盾しているだろうか?
これは食材で言うところの、超高級な牛肉みたいなものだ。優れているのはわかるが、調理されないと食えない。つまり、"そのまま"だと『価値』に乏しい。これに近い。
ということでここからは、自分を棚の上に思い切り放り投げた上で、『高スペック』に『価値』を創造する方法を考察してみようと思う。
ここにしかない何か。
もし、『高スペック』なだけで飯が食えるなら、東大生や通訳案内士、公認会計士は例えば全員Youtuberとして金を荒稼ぎできるはずだ。
だが現実はそうではない。今は『能力』より、『独自性』や『個性』に『価値』が付いてくる時代なのだ。
僕は超エリートだけど上から目線で教えてくる講師より、飛びぬけた成績でなくとも、こちらに寄り添い指導してくれる講師の方が格段に良い。
だから何とかして、『その人にしかない価値』を生まねばならないのだ。言い換えれば『魅力』である。
もっとも、それができれば億万長者間違いなしの超難題なのだが、とりあえず僕が『コレは言い得て妙だ』と感じているアドバイスだけ、紹介する。
それは、『広く浅い経験を大量に得る』というものだ。
まず、ハッキリと『能力』と『経験』は似て非なるものだ。TOEIC満点と、英語圏在住経験アリがなんか違う響きなのに似ている。
そして今は、後者の『経験』が要となる。能力の替えは利いても、オリジナルの経験を持つ人の替えは利かないからだ。ここに大きなヒントがある。
『経験』は本当に些細なものでも良くて、今まで何となく電動髭剃りだったけど、五枚刃のヤツを買って使ってみるか、というのでもいい。
ちなみにこれは僕の例なのだが、恐ろしいほどツルスベに剃れて、僕は今超満足している。おめでとう、これで僕もオリジナルの『経験』が得られました!
―これはもっと身近なシチュでも通じることだ。
『俺、あの大学の奨学金特待生に受かったんだよね』
『俺、昔離島のキャンプ場で7泊8日したんよね』
という導入があったとき、僕は後者の方が心惹かれる。前者はただの自慢だと読めてしまうからだ。『能力』と『経験』の違い、伝わっただろうか?
しかし、実はこれ、ただの観点の違いに過ぎない。
高い能力を持つ人は、必ず猛勉強なり猛特訓なり、奥深く面白い独自の『経験』をすでに得ているハズなのだ。新たに材料を作る必要もない。
結果だけを見るのを止めて、過程に価値を見出そうという提案である。長くなったが、伝わっただろうか。
終わりに。
ということで、書いている内に熱くなってしまったこのテーマ。
無論、『高スペック』を目指すことを否定はしないが、それに終始し『経験』をないがしろにする考え方は釘を刺す。
世の中に高スペックはたくさんいるのだ。だが、同じ経験値を持つ者は、多分ほとんどいない。せいぜいそれは"似ている"だけだ。
しかも、同じ経験値を持つ者とは、競争相手ではなく同志である。価値観が似ていることは、理想のパートナーとしてよく条件に挙がるくらいの話だ。
―どうもここ最近、周りに自分の『スペック』を気にするヤツが、友人・生徒問わずに不思議と増えてきた。
そういう悩みを持つ方のヒントになっていることを願いながら、ここで終わりとする。
では、長文なのにお読みいただき、ありがとうございました。