精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

高スペックに『価値』はどこまであるか? ―ある種の勘違いに釘を刺す。

思い出したように語るが、僕は英検準1級と1級を持っている。だが、ぶっちゃけそれそのものの恩恵について、日々そこまで感じることは無い。

 

何故かというと、それを持つ人も、僕より遥かに能力が高い人も、ごまんといるからだYoutubeで検索を掛けたら、夥しい数の『1級が教える~』シリーズが出てくる。

 

上には上がいるという言葉をまざまざと感じさせられる。登っても登っても誰かが先に居る感覚。

 

―これについて、僕は『高スペックの罠』という風に考えている。『能力』の取得とその『証明』に心血を注ぎ、自分の『価値』を高めようというプロセスだ。

 

何故罠かというと、これは永遠に一番になれないことを意味するからだ。今日はそれを導入にしつつ、高スペックの『価値』について論じてみる。

 

 

高スペックというレッドオーシャン

 

実を言うと、自分の価値を『能力』もとい『スペック』に置く人は、僕は結構心配しているその自信は世間が広がれば超たやすく粉砕されるからだ。

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東大に受かった人は確かに凄い。だが、ハーバード大に受かった人はもっとすごい。しかも人によっては、東大に受かった秀才より、イケメンの方がすごい。

 

価値観一つでコロコロ勝敗が変わるため、才能と才能、能力と能力、能力と才能の比べ合いほど不毛なものはない。

 

だから僕は、比べ合いそのものに、とっくに辟易している。(何度も書いたテーマだからもう書かない)

 

さて。怖いことに、この価値観にどっぷり浸かると、『他者評価』ばかりを気にし続ける主体性のない人生が待っている。(僕も20代前半まで無意識にハマっていた)

 

(人に凄いと言われたいから)〇〇を目指します!

 

という具合。さっきも述べたが、達成できても必ず上の存在が居て、大体はそれが気になり自尊心が満たされないのがオチだ。

 

こうして自尊心がどんどん渇いていくと、その人は多分別の手段に出る。例えば、『自分自慢』だ。もっと俺を認めろと、声高に主張し始める。

 

―ここまで来ると想像に難くないが、こういう自慢野郎は面倒としか思われない。『能力』に固執するばかりに、『人となり』に傷がつくとか滑稽である

 

さて。そろそろ伝わり始めてるかと思うので、結論をドンと書いておく。

 

僕は『高スペック"そのもの"』の『価値』は、当人が思っている以上に低い

 

と考えている。東大にだって、学部ガン無視すれば毎年3000人近くが入学していくのだ。また、学歴がどうでもいいフィールドであれば、そもそも価値は0となる。

 

―だが、『高スペック』が無意味だというつもりは全くない。むしろ、それは活用次第で非常に高い価値を持つと考えている。矛盾しているだろうか?

 

これは食材で言うところの、超高級な牛肉みたいなものだ。優れているのはわかるが、調理されないと食えない。つまり、"そのまま"だと『価値』に乏しい。これに近い。

 

ということでここからは、自分を棚の上に思い切り放り投げた上で、『高スペック』に『価値』を創造する方法を考察してみようと思う。

 

ここにしかない何か。

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もし、『高スペック』なだけで飯が食えるなら、東大生や通訳案内士、公認会計士は例えば全員Youtuberとして金を荒稼ぎできるはずだ。

 

だが現実はそうではない。今は『能力』より、『独自性』や『個性』に『価値』が付いてくる時代なのだ。

 

僕は超エリートだけど上から目線で教えてくる講師より、飛びぬけた成績でなくとも、こちらに寄り添い指導してくれる講師の方が格段に良い。

 

だから何とかして、『その人にしかない価値』を生まねばならないのだ。言い換えれば『魅力』である。

 

もっとも、それができれば億万長者間違いなしの超難題なのだが、とりあえず僕が『コレは言い得て妙だ』と感じているアドバイスだけ、紹介する。

 

それは、『広く浅い経験を大量に得る』というものだ。

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まず、ハッキリと『能力』と『経験』は似て非なるものだ。TOEIC満点と、英語圏在住経験アリがなんか違う響きなのに似ている。

 

そして今は、後者の『経験』が要となる。能力の替えは利いても、オリジナルの経験を持つ人の替えは利かないからだ。ここに大きなヒントがある。

 

『経験』は本当に些細なものでも良くて、今まで何となく電動髭剃りだったけど、五枚刃のヤツを買って使ってみるか、というのでもいい。

 

ちなみにこれは僕の例なのだが、恐ろしいほどツルスベに剃れて、僕は今超満足している。おめでとう、これで僕もオリジナルの『経験』が得られました!

 

―これはもっと身近なシチュでも通じることだ。

 

『俺、あの大学の奨学金特待生に受かったんだよね』

 

『俺、昔離島のキャンプ場で7泊8日したんよね』

 

という導入があったとき、僕は後者の方が心惹かれる。前者はただの自慢だと読めてしまうからだ。『能力』と『経験』の違い、伝わっただろうか?

 

しかし、実はこれ、ただの観点の違いに過ぎない。

 

高い能力を持つ人は、必ず猛勉強なり猛特訓なり、奥深く面白い独自の『経験』をすでに得ているハズなのだ。新たに材料を作る必要もない。

 

結果だけを見るのを止めて、過程に価値を見出そうという提案である。長くなったが、伝わっただろうか。

 

終わりに。

 

ということで、書いている内に熱くなってしまったこのテーマ。

 

無論、『高スペック』を目指すことを否定はしないが、それに終始し『経験』をないがしろにする考え方は釘を刺す

 

世の中に高スペックはたくさんいるのだ。だが、同じ経験値を持つ者は、多分ほとんどいない。せいぜいそれは"似ている"だけだ。

 

しかも、同じ経験値を持つ者とは、競争相手ではなく同志である。価値観が似ていることは、理想のパートナーとしてよく条件に挙がるくらいの話だ。

 

―どうもここ最近、周りに自分の『スペック』を気にするヤツが、友人・生徒問わずに不思議と増えてきた。

 

そういう悩みを持つ方のヒントになっていることを願いながら、ここで終わりとする。

 

では、長文なのにお読みいただき、ありがとうございました。

 

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