やや哲学的だが、自分が知らないこと、わからないことに気付くのは本気で難しい。
誰だって自分ができないところを直視したくはないのだ。だからこそ、あの手この手で『脳』が『知ってる感』を出してくる。
しかし、知ったかぶる人間の末路は悲惨だ。本当に知識を持つ人には見下されたり論破されたりするし、良くて現状維持が精いっぱいになる。勉強をしないからだ。
尚、このバイアスが掛かっていると、講師としても致命的だ。知らないことを認められないので、独りよがりな説明が出来るためだ。
文字通り、教科書を音読するだけの不毛な時間になることもあり得る。これは怖いし、誰も幸せにならない。
だから僕は僕に対し、時たまこの『わかってないのにわかったと思い込む心理(≒流暢性の罠)』を打破する質問を投げかけている。
これはきっと皆さまの勉強においても有用だと思うので、ここにシェアしておく。
①『カタカナを使わずに説明できるか?』
やたら横文字で語る人は、『意識高い系(笑)』を言われ、裏でバカにされがちだ。
「既存のプラットフォームをドラスティックに改革し、B2Cにおいてウィン・ウィンの関係をビルドする」
みたいな?ここまでエセなヤツは居ないだろうが、聞いていて耳が痒くなる。
だが、例えば政治経済の経済分野を勉強していると、どうしてもカタカナの語句や、理解ができそうでできない語句にぶち当たることが多い。(例:デフォルト)
そこで僕は、『カタカナ』を使わずに説明できるかどうか試し、無理ならば調べるようにしている。難しいことを難しく言うのは簡単なのだ。テキストを音読すればいい。
言い換えれば、『専門用語を使わねばそれを語れないとき、実はよくわかってない』という話になるので、シンプルながら強力な質問である。
②『例え話を作れるか?』
自分が勉強していることについて、わかっていないとできないことがある。それは例え話だ。
昔書いたが、僕は例え話の上手さと講師の力量は比例すると考えており、日々自分で色んな本を読みながら、それについて考えている。
『量的緩和政策を生徒に説明するには、どんな例え話を使おうか・・』
みたいな具合で自分に質問し、イメージがつかめ切れていなければネット等を漁る。これもまた、シンプルだが非常に効果が高い質問である。
③『定義を語れるか?』
ただし、『例え話』におんぶにだっこなのも考え物だ。ある事柄を学ぶ際、『例え話以外で説明が出来ない場合』も、実は多分わかってない。
『クラウディングアウトってのは、例えばあんたが誰かから借金したら、その人は本来他に使えた金が無くなっちまうやろ!選択肢無いなるやん!そういうことやねん!』
―みたいな説明は、イメージしやすいが故、やはり本質がみえない。教える側は、カッチリした例もきちんと知っておかねばならないだろう。
実際上記の例は、例え話としては△のレベルである。鵜呑みにしっぱなしだと、やはり危険だ。詳しい人は、何がズレてるか探してみてほしい。
―ということで少し短いが、今日はこの辺にしておく。
自分が知らないことを認めるのは、成長の起爆剤である。自分が知り尽くした井戸にとどまり、『俺は井戸に詳しいから海も語れるねん』という蛙は哀れだ。
そして別に自分が知らないことに飛び込んだからと言って、それがバカや無能の証明にはならない。
いわゆる高学歴の天才も、例えばネットの情報全てを知っているわけじゃないのだ。それは人間じゃなくAIの仕事である。
わからないことに気付き、取り組み、噛み砕き、独自の教え方・観点を養う。仰々しいが、この流れはかなり楽しいと思う。
それが伝わっていれば嬉しい。では今日はこの辺で。