有難い話だが、結構難題の授業をリクエストされることがある。(例えば、僕の出身大学より偏差値が10上の大学の過去問演習とか)
しかしその都度、その内容には呻吟する。それは、僕の理念とご家庭の要望が、微妙にマッチしないからだ。
それくらい、実は『難問』に特化した授業の解説・授業は、慎重に慎重に考えねばならないものなのである。無邪気に衒学できるとはしゃぐのは愚かなのだ。
そこで今日はただの愚痴に等しいが、『難問の授業』について、色々と私見を書き殴ってみる。
難問を解いているという充実感が一番危険。
これはあくまで私見だが、僕は【難しい問題を難しく語るのは凡人】と考えている。それは教科書を音読さえできれば、誰でもできることだからだ。
だから僕は、どんな難問だろうと、それに甘えて難しく語ることを極力避ける。例え話はたくさん使うし、乱暴な和訳だって取る。
―だが、それに対して物足りなさを覚えられてしまうこともまた、たまにある。何というか、『自分でもできそう』と思われるらしいのだ。
これは皆さんお馴染みの『流暢性の罠』≒『ファインマン効果』なのだが、それで悲しいことに、講座を離れられたことも、一度だけではない。
その後の追跡調査は面倒なのでしていないが、首尾よくいったとはどうしても思えない。わかったフリの末路は怖いのだ。
では、プロの難問解説はどうなのか?
ということで、僕はよく『プロ』の難問解説を観るようにしている。パクることは悪でも何でもないのだ。
すると、大体押しなべて、以下の共通点があるように感じられる。
① 授業は基本解説一辺倒。(問題に挑むことが宿題)
② 大学の傾向を必ず最初に述べる。
③ ある程度の基準を伝える。(最低でもここまでは解けるように、等)
こうすると、確かに『付加価値』という点で、『たくさんの情報』を与えることが可能である。商品として申し分ない。
また、恐らくわざとだろうが、ある程度『わからない』部分も残しているように感じられた。
こうすることで巧妙に危機感を煽り、ヘンな勘違いをされるのを防いでいるのだと思う。
今後いくつ講座が出るかわからないが、僕も意識しておこうと思った。
でも、難問に囚われても危険です。
だが、難問ばかりに囚われるのも考え物だ。大学によるが、基本は6~8割が合格点である。
となれば、毎度毎度2~3問くらいは捨てて良いのだ。これを口酸っぱく伝えることもまた、難問を扱う講座に欠かせないファクターだと感じる。
難問ばかり解いて賢くなるのか?
最後に、ちょっぴり重たいテーマに触れておこう。断言するが、素養が無いまま過去問にかじりついても、一ミリも賢くはならない。
大切なプロセスは、一見意味不明な問題から質問を読み取り、Aという知識とBという知識からC,Dという第三の知識を『閃く』という思考法だ。
その解法を丸暗記することは、極端な話不可能ではないかもしれない。だが、どうしても、「それで?」という思いは拭えない。
サッカーには、オーバーヘッドキックという技がある。そればかり練習すれば、例えばサッカーの技能全般が向上すると思われるだろうか?
実は難問・過去問もそれに似ている。基礎基本が徹底しているからこそ、挑めるのだ。順番を逆にしても自己満足。気を付けねばならない。
終わりに。
ということで、とりとめもなく抱えているもやもやを書き出してみた。時折言葉が強くなった気がするが、本音なのでしゃーなし。
ここは本気でジレンマだ。難題を難題っぽく語りたくない。だがそうすると、謎の自信を生んでしまい、良くない方へ転ぶことも多い。
何事もバランス。そう思わされた。わからせるのも仕事だが、敢えてわからないところを残すのも技量。多分そうなのだろう。
教えることにお悩みの方に、一種のヒントが書けていれば幸いだ。では今日はこの辺で。