今日はある少年の実例を紹介しよう。
その少年は、よく言えばピュアで、悪く言えば生意気な性格であった。自分が疑念に感じたこと、意義を感じないことは徹底して避けるタイプ。
音楽の授業では『人生の何の役に立つんすか~』といった結果、1年を通じて『2』と『C』だらけになってしまったという。露骨な復讐だぜ。
また、社会の授業も当時は死ぬほど退屈していたため、早々に昼寝時間にチェンジ。実はテストで87点とか取っていたのだが、余裕で3がついて終わりであったらしい。
―彼の悲しい話は、他にも枚挙に暇がない。以下、箇条書きで列挙しよう。
まず、細かく書いたら特定されるのでボカすのだが・・・。
彼はとある運動部に属していた。
しかし、『一年生だから』という理由だけで、基本練習だけを繰り返させられることに飽き飽きし、練習態度が日増しに悪くなっていったのだ。
動作は手抜き。なんならちょっと遅刻。そんな感じ。
―でだ。
その当時の顧問は、実はとある科目の担当でもあった。その科目を、Nというその少年は実は得意としていた。
提出物はコンプ。作品は全てこだわって作成。そして筆記テストは90点超え。成績が『5』じゃないとあり得ないくらいの出来だ。
―が。
結果はまさかの『3』。
『C』が2つ付いていた。あたかも、「『2』が無いだけ感謝しろ」とでも言いたいかのように、そいつは感じたという。
少し混乱しながら心当たりを考えたが、原因はもう1つしかない。
部活の態度の悪さだ。
そこを学業と混ぜられたら終わりだが、いわば『成績』とは、すごくネジれた言い方をすれば、『やり返しの場』だ。
以後彼は、「それならば!」とその科目の努力の一切を放棄。最後まで2と3を行ったり来たりという状態のまま、中学を卒業したのであった。
・・・ということで、あまりにも時間がなくて、何番煎じがわからない僕の思い出をまた記事にしてみた。
最近はここまで露骨な調整は無くなったと信じたいのだが・・・・・面談の場などで聞く限り、必ずしも0では無さげである。
特に中学校は、内申点だけで人柄まで決めてかかられる傾向がある。
とある県は、ボーダー+50点を取ろうとも、一時期不良だった過去があるだけで、更生してようが公立には入れないという話もあるそうだ。
『過去にワヤしたんだから報いを受けろ!』という論をたまに聞くのだが、その度にワンアウトすら許さない日本社会の息苦しさを感じ、気持ちが悪くなる。
ミスしたことがない、人当たりが良い人だけが『優秀』。こんな価値観だと、そりゃ自由と正当な評価を求めて海外に出ていきますよねと、すごく納得である。
いつか(できるだけ近い将来)、旧態依然としたシステムで運営される『内申点システム』に大ナタが振るわれることを、僕は願って願って仕方がない。
もうこんな悲しい(自業自得ともいえるが)被害者は要らない。大人そのものに失望し、将来を悲観するのが関の山だ。
皆さんはどう思われるだろうか。
では今日はこの辺で。