『読書』をすると、人生において色々恩恵があることは間違いなさげだ。これは主観的にもそう思うし、何なら研究でもそれが示唆されているという。
一応僕自身も本を読むっちゃ読むが、本を読むことの意義を履き違えた人のコメントを聞くと、なんかすっごくモヤモヤする。
それは例えば、
『本を読むことって大変素晴らしいのに、なんでみんな読まないんですかねぇ・・・』
『周りの奴らが無知すぎて、話がおもろないんすよ・・。本でも読めば良いのに・・。』
といった、読んでる俺エライ的なニュアンスを感じるものだ。相手にするのは面倒なので、『そっすね~』みたいにあしらってスルーしてきたが・・。
ってことで、『読書』について色々承知している人にとっては、ある種当然なことを今日は書きたいと思う。
ただしこれはあくまで、主観的なただの自論なので、話半分に読んでいただきたし。
まず先に言うと、『読書』することを"ステータス"にする人は、なんかズレてると思わざるを得ない。
例えば、『知的キャラに見られたいから、難しそうな本でも抱えとこう。』とか、『インスタ映えするから、カフェで洋書なうとか言ってみよう』とか。
別にこれだけなら、個人の自由なので勝手すればいい。問題は、本を読んでるというただその一点でマウントを取り始めた場合だ。
『本を読む自分は優位!』という感じで、聞いてもないのに読んだ本のタイトルをペラペラ喋る、みたいな。実はたまに、大人でもこのタイプとは出会う。
よ~~~く聞けば、タイトルと薄い感想以外は口にしていないことが多いので、ちょっとでも内容を突っ込むとしどろもどろする様子は少し微笑ましいが・・。
そういう人と相対して、『自分はまだまだだ・・・』と変なネガティブを覚える人が居ないかだけ、ちょっと気掛かりである。
―じゃあ、本来『読書』ってどう捉えるのが健全なのか?超当たり前のことを言うが、自慢のためでも、強制されるものでも、絶対に無い。
シンプルに、楽しむためか、ヒントを探すためではなかろうか。僕が本を読む動機は、正直この2つしかない。
例えば小説は、ハッキリと前者。僕は小説に人生のヒントなんて求めてない。単純にストーリーを楽しんでいるだけだ。
また、仕事の悩みの解決策やアイデア探し、あるいは単純にその著者の哲学が知りたいときも、僕はよく本を手に取るようにしている。
動画もアリだが、僕にとっては活字を目で追った方が早いからである。そしてその時に気を付けているのが、『読んで終わりにしないこと』だ。
『大局観』にも確か書いてあったが、『情報を入れるだけだと情報メタボになる。如何に知恵へと昇華させるかが大切』なのだ。
ただの知識か、それとも知恵かを分けるのは、実際に試してみたか否かの一点に尽きる。
例を挙げる。
「『革命のファンファーレ』にあったけど、信用を貯めておくとトクするぞ!」
「『革命のファンファーレ』にあった通り、友達になにくれと尽くして信用を貯めようと意識したら、お返しってことで女の子の紹介がもらえたヨ」
―どちらが知恵だろうか。
お分かりの通り、後者だ。知恵にはその人の経験と感想というオリジナリティが付いているため、ただ書いてあることを話しているか否かは、そこで判別可能。
そこまでやれば、『読書』をきちんと活用できていると言えるのではなかろうか。逆に言えば、そこに至っていないのなら、ただの趣味でない限りは不十分となる。
―そもそも言えば、何を媒体にしようと、知識やヒントを得て、自分の行動に活用しさえすれば、知恵に変わる。
『読書』が高尚なソースだとか、そんな貴賤は存在しないのだ。
―ってことで今日は、とりとめもなく書き殴ってみた。別に『読書』という行為を否定するわけではなく、おしい人に、おしい!と言いたかっただけである。
それを意識して、読んだら行動するようにしてほしい。その方が面白いと僕は思いますよ。
では今日はこの辺で。