最近、『頭が良い子』の定義が二分化されつつあるのは周知のことだと思う。
① 全てで80~90点以上を取る東大生タイプ
② 何かで1000点以上を取る、超マニアタイプ
という感じ。相変わらず今の世では前者の人気が高いが、それは前者の方が圧倒的価値を持っていた時代の方が、人事権を持っているからに過ぎないと僕は思う。
つまり、学校のオベンキョウができるできないは、これからの社会で成功するしないに、以前ほどは寄与しなくなっているということである。
模試で偏差値70を超えるヤツも、ポケモンが全部言えるヤツも、『すげぇ・・』という意味では同じということである。
さて。ここだけ取り出すと、『何か』に特化しさえすれば、それで成功できる!という夢溢れた未来が閃きがちだが・・・。果たしてそれは、そこまで甘い話だろうか?
僕はそう思わない。突き抜けるとは、生半可な話では無いのだ。僕自身、これは突き抜けつつあるナァという趣味はあるが、行きつくまでに20年以上掛かっている。
しかし、『突き抜けた人』は幸い周りに何人もおり、彼らの思考パターンや共通点も、ある程度見えている部分もある。
って今日は、あることを提案し、それについてダダっと書いてみる。
何かで飛びぬけたければ、少なくとも『仮説』が頭に浮かぶまでは勉強デスネ。
今日はそんなお話。
100点を超えるとはどういうことか?それは、教科書に当たる何かに載っている情報を超えた、その人独自の理論・経験を大量にストックするということだ。
例えば、美術の教科書を開けば、アルカイックスマイルとかエンタシスとか、よくわからない語句がたっくさん載っているものだ。
これらが全部言えれば、テストでは100点。しかし、悪く言えばそこ止まり。
では、100点を超えるとはどういうことか?僕なら、実際にそれらを見に行くか、最悪ネットの画像を眺めるかして、自分なりの感想を添えようと頑張ってみる。
『Aくんが写真に写るとき、アルカイックスマイルしてるよね』とか、『エンタシスの柱ってちょいメタボなイメージよね』とか言えれば、それは既知の知識を超える。
こういう『オリジナル』な部分をたくさん作り、かつそれを面白がる人が現れれば、100点という上限をその分野では飛び越え始めるという話なのだ。
―となれば段々わかってくるのだが、やはり基本的な知識をおざなりにして、その域に行くのは極めて難しいということでもある。
もちろん例外もあるが、ゲームをするならまずは、どのボタンがどの動作に対応するか覚えるところから始める感じに似ている。
とはいえ、教科書の知識を徹底してなぞっても、上限は100点だ。一体、どのくらいやり込んだら、100点超えに移っていいのだろうか。
―僕は、そのラインについて、『仮説が閃くまで』と考えている。
『ここで砂糖じゃなくメープルシロップを入れたら、味ってこう変わるかな?』とか。
『バントの構えから打つと見せかけてまたバントしたらどうなるだろ?』とか。
『釣れてはないけど、カレイがめちゃ釣れる場所と地形が似ているから、やってみようかな』とか。
『ここをこう変えたらどうなるだろう?』という疑問が閃くようになったら、そこからが『オリジナリティ作成』に移行するタイミングだ。
後はその仮説を検証し、考察すれば、105点、110点、115点・・・という風に、オリジナルな経験則がストックされてどんどんと高い点に昇っていく。
そして面白いもので、『仮説』は『検証』・『考察』することで、ほぼ例外なく『新たな仮説』を生む。となれば、ループに乗りさえすれば急激に成長ができるという話。
繰り返すが、『仮説』を閃くには、既存の知識をある程度仕入れておく必要が絶対にある。調理法の知識ゼロでは、料理が何一つできないのと同じである。
だが、そればかりに終始しても、東大生とか京大生とかいう秀才には敵わない。だから、既存の枠を出て、新しい土俵を作れとよく言われるのだ。
―ちなみに、子どもは放っておいても仮説を引っ張ってくるのが得意だと僕は考えている。
それを面白がるか、つまらないと潰すか。僕はできれば、これからもずっと前者でありたい。もっと言えば、検証の場に立ち会いたい。
例えオトナになっていようと、『あれをこうしたらどうなるかな?』という目線を持つことはとても大切である。
一旦精神年齢を9歳くらいにブチ下げて、あの頃みたく未知をエンジョイしてはどうだろうか?
では今日はこの辺で。