教科書本文から入試まで、毎日色んな読解問題に触れているが、その内容を長期で記憶しているモノはあんまりない。
ふと思い返せば、小中学校の時の教科書本文も、実はあんまり記憶に残っていない。全力で思い出してみたが、『ポディマ・ハッタヤさん』という人名が関の山だった。
その原因を考えてみたが、大半の長文は、『現実味あるもの』でもなければ、『実用的な教えがわかりやすく含まれているもの』でもないのが一因だと思う。
もちろん文学作品や知識として非常に面白いというのは今なら理解できるのだが、得てしてそういうものは、子どもにとって退屈に映りがちである。
しかも不思議なもので、教科書に載っている文章のジャンルは『説明文・随筆・物語』のほぼ例外なくどれかのみである。違うのは詩くらいかな?
・・・どれにもハマらない生徒にとっては、選択肢が少なすぎると思えてしまう。その場合はどうすれば良いのだろう。
―障壁だらけなのは承知だが、僕はここに『ビジネス書』も混ぜれば解決できると思っている。
そうすれば、学校内に蔓延る問題も、特に教員側の負担を増やすことなく減らせるかもしれない。今日はそんなお話。
学校で扱う文章でカバーできないところとは?
学校で扱う文章に対し、授業を行い、解説をし、意見を言い合い、最後は定着度をテストで確認・・・。なるほど、よく見る光景である。
だがこのプロセスには、『読書』というツールにおいて一番大事な要素の1つが抜けている。
それは、『実践』である。或いは、『実践への橋渡し』と言い換えても良い。
例えば、『さんねん峠』という懐かしい話がある。皆さんはその中身を覚えているだろうか。
話として面白いのは間違いないが、その上で一つ尋ねたい。これを読んで、『よっしゃ、俺も転んでみるか』と思った方はいるだろうか?
『極端な例で煙に巻くな!』と言われそうなので、もっと広げよう。教科書にある名作、その教えを『理解し実践して知見を得てきた』方はいるだろうか?
僕は帽子の下にみかんを置いたことは無いし、素潜りして巨大魚をモリで突こうとしたこともない。アラスカの自然を旅したことも、もちろんない。
もちろん小中学生の国語は、名作に触れて心を豊かにするという目的があることも認めるが・・。それが動機でその習慣を作り、継続できる子は少数派なイメージだ。
ある程度年齢を重ねてくると、『読書』の動機は、『自分の悩みを取り除くための情報を得る』ことに重きが置かれるケースが大半ではなかろうか。
そんな風に自分を変えるために『読書』するなら、行動は必須という教えに、誰からも指摘されず気付くことのできる人間はどれくらいいるのだろうか?
ちなみに僕は、読書習慣を身に着けてから、行動もセットにできるようになるまで、5年くらいかかってしまった。読んで満足してしまっていたのだろう。もったいね。
こういう風に、『読書』と『実践・経験』を結び付けておく意識は、僕は義務教育の間に修得しておくべきスキルだと思っている。
だから『実践』が必須で、し易いビジネス書が良いよね、と。
それらをカバーしようと思ったら、使う教材、もとい文章の質を変える必要がある。だから僕は『ビジネス書』を推したいのだ。
社会における様々な場面で使えるテクニックや、普遍的な教え、色々な人の独特な考え方がそこに詰まっている。
つまり状況や想定がリアルの世界と非常に近いため、より手触り感というか、『生きる知識』として感じることができると言えるのだ。
また、自分の想像もしていなかった働き方、将来のビジョン、そして自分たちが生きる現代社会の『今』を掴むことにも繋がる。
こういうライブな知識って、教員が自作のプリントとかを作らない限り、子どもが触れる機会はほぼ無いと思うのだがどうだろうか。
―ちなみに僕は、まだ読みやすいと自分が思うビジネス書を、生徒の目に触れる場所にわざと並べている。
今のところ、手に取る生徒数はぼちぼちという具合。様子は見たいと思ってます。
ってことで、高尚な教育論よりも、意外とビジネスのリアルな話かもですよ、ということを書いてみた。いかが思われるだろうか。
では今日はこの辺で。