僕はあまり小説を読まないのは何度か書いてきたことだが、当然人生においてゼロではない。ハマったそれも、いくつかある。
例えば、『竜馬がゆく』とか『坂の上の雲』、『世に棲む日日』はちゃんと全部読んだし、『天地明察』とか『はなとゆめ』、『親鸞』もハマった。
つまり歴史小説ばっかりなのだが、他にも『とらドラ!』とか『メタルギアソリッド ガンズオブザパトリオット』、『命売ります』なども読んできた。
普段から『ビジネス書』の恩恵ばかり推しているため、心なしか『文学』をディスっているような気になったので、ここでちょいと否定しておこうかな、と。
『ビジネス書』は即効性のある教えがあるが、『文学』にもまた、遅効性ではあるが非常に有益な効用が含まれているのだ。
実益の有無で読む読まないを決めるのはナンセンスだが、違った角度からの独り言ということで、気にせず書いてみようと思う。
心が豊かになると、『アレ』に強くなる。
タイトルにもある『アレ』の正体を先に言っちゃおう。『ストレス』だ。
僕もそうなのだが、ストレス対処が下手な人は、そもそもそれそのものを上手く定義できていないことが多いのだという。
このイライラは、喜怒哀楽のどれが原因なのか?では、その感情を引き起こしたファクターは何なのか?
ここを一切つかめていない状態なら、どんなメンタルに効くテクニックも暖簾に腕押し。
『よくわからないけど身体が痛いから胃薬を飲んどきます』というくらいバカげた話になるのだが・・・。実はこれが難しい。
例えば、自分の状況を、『よくわからないけどイライラする!』とか、『なんか知らんけど落ち込んじゃって・・』というふわっとした定義で終わらせようとする人がいる。
極端な例は『ヤバい』である。こういう何にも分析が済んでいない状態では何も始まらないのだが、なぜこうなってしまいがちなのか?
それは、感情を言い表すボキャブラリーが貧困だかららしい。つまり、言葉でどう言い表せばいいのか、そもそもネタがなさすぎるそうなのだ。
知識が少ないものを組み合わせて何かを表現するとか・・・。古文単語と文法でスピーチを作れと言われるくらい難しいように思える。
では、一体どこからそれを学べばいいのか?もちろんもっとサクッとした道はあるが、その教科書として適しているのが『文学作品』なのである。
いわゆる小説家の腕の見せ所は、誰もが抱える心の内を、鮮やかに言語化してみせることだと僕は考えている。
例えば重松清が書き出す思春期の男女の胸の内は、今読むと涙腺が簡単に緩むくらい、リアルだし痛烈だ。過去の僕の心を代弁してくれているかのような気にさえなる。
そういったプロの技を純粋に楽しむのも良いが、せっかくなら自分の糧にしたい。
だから試しに、自分が抱えるモヤモヤやイライラがあるなら、出来る限り言語化してみよう。それか、それにピッタリな言い回しを思い浮かべても良い。
ちなみに今の僕が超好きなのは、尾崎放哉の『せきをしてもひとり』である。僕がどんなコンディションか、推して知るべし・・・である。
そんなワケで、『文学』とは意外と、『娯楽ではない』一面もあるのだ。もう一度言うが、こんな主張、野暮なのは承知の上である。
言葉は物と物をいたずらに分断するという哲学的な意見も何かで読んだことがあるが、分断せねば苦しいままなことも、この世には多いのだ。
そういう目線、面白く思われないだろうか。というワケで今日も、僕はこんな良い月を一人で見て寝る。
では今日はこの辺で。