精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

『才能』の有無にこだわるのは愚策だと思う。

一時期、特に昔野球をしていたころ、『才能』というものが喉から手が出るほど欲しかった。

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もっと背が高ければ、もっと勉強ができれば・・・。でも、どこまで行っても、努力では超えられない壁がいる。だから『才能』さえあれば・・・。

 

また、『才能』の存在を絶対的に認めてしまえば、『才能が無いものは頑張っても無駄だから頑張らない』ということが肯定されるとも思った。つまりラクになれるのだ。

 

―結構長いこと、この才能ジレンマにハマっていたのだが、最近は考えが変わった。むしろ、『才能があるとか無いとか考える方が危険』と思っている。

 

なんなら、『才能』という絶対的な価値を持つ何かのような言い方で、自分の価値を捉えるべきじゃない。それくらい強く考えている。

 

今日はそんなお話。

 

 

『才能』のダークサイド。

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『才能』の良いところとか考えるまでも無いと思うので、そのダークサイドからまずは書いておこう。

 

野球が得意なある小学生の少年を想像してほしい。彼は周りから『才能があるね~』と言われて育ち、実際それ相応の成績を残し続けている。

 

少年野球団では打率3割という化け物じみた成績を残し、体格も良く、正直言って敵など居ない状態である。

 

―そんな彼は、公立中学校という環境下で野球をするよりもということで、とあるクラブチームに属することを選択する。

 

そして彼はそこで、初の挫折を味わう。自分より能力がある同期・先輩がそこにいたからだ。どうすればいいのだろうかと。自分には才能があるはずなのにと、悩む。

 

・・・たまたま彼にはある程度の身体的強みがあったので、成長期に入ると同時に体格がさらに大きくなった。そして、生まれ持った能力で彼らを凌駕し、レギュラー入り。

 

チームで一番上手いのでは?という評判を得ながら引退し、高校はスポーツ推薦で、勉学はサッパリながらも有名な学校へ進学を果たす。

 

・・そこで彼は完全に心を折られることになる。その学校に居るのは彼と同じく、抜きんでた才能を持つ人間だけ。つまり、才能が前提なのだ。

 

『肩が強い?足が速い?そんなもの当然だろ?で?』

 

全てができた彼がいきなり、全てできなくなったのだ。野球とはチームプレイであり、抜きんでた者を集めて試合に臨むのものである。

 

極端さが無ければ、頭角を現すことは出来ない。生まれ持った才能だけの限界に、彼は向き合うこととなった。

 

―そんな日々が続き、彼は思い悩むことになる。『野球の才能』には人生を通じて目を向けていたが、それ以外のことなど考えていなかったからだ。

 

また、『野球の才能がある』ということは、『他の才能がないこと』とほぼ同義。生まれ持ったものだけで突き進むと、こういう価値観になりがちなのだ。

 

そしてもちろん、他の道を探そうとすると、自分の過去と周りの人間がそれを止めようとする。今までの積み重ねを無駄にする気かと。持って生まれた才能を潰す気かと。

 

才能のダークサイドはここにある。『才能』だけで生きられるほど、どこの世界も簡単ではない

 

加えて、『才能』があると言われるほど、他の選択肢が消えていくのだ。 

 

安全装置を次々と捨てながら、ドンドン細くなっていく崖の上の道を歩いて進んでいく感覚。悲しい現実だが、いずれ落ちる人が大半だ。

 

そして落ちれば、ダメージは浅くない。選択肢というバッファを捨てているからだ。

 

無条件に『才能』を信奉することは、これくらい怖い側面を秘めている。

 

僕らは天才をうらやむより、結局何事にも負の側面はあるんだなと、少し思い巡らすくらいがちょうどいいのかもしれない。

 

『才能』の捉え方を変えるべき。

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『才能』という言葉のパワーはえげつない。だが、えげつないがゆえ、他の選択肢を自他から奪うというダークサイドがあることはさっき書いた。

 

勉強が得意な子は、勉強を主軸にした生き様を軽く強制される。世の中には勉強ができる才能があるヤツなど、冷静に考えればごまんといるのに・・・。

 

それに、『才能』というのは抜きんでた何かという意味なので、謙虚と真面目を拗らせた人ほど、『俺にはそんなんねっす・・』と自信を無くすのは自明である。

 

ということで提案なのだが、そんな大層な言葉で定義せずとも、自分の『好き』とか『得意』なことこそ、みんながいう『才能』なんだと改めるべきだろう。

 

例えば、アニメの好き度合いで競い合っても無意味である。『好き』を繋がりにしていると、競争がそこには生まれない。つまり健全なのだ

 

また、『好き』とか『得意』程度ということは、別に突き詰める義務はないということだ。それでメシを食うとか、将来の選択肢に入れるとかなんて重さは、別にない。

 

誰かと競って蹴落とすような思考に持っていくから、『才能』が辛いものに変わるのだ。だったら最初から考えなければいい話である。

 

好きなら、得意なら、それを発信すればいい。好き同志で繋がればいい。

 

『お前の好きとかニワカww』というタイプは、そうやってマウントを取らないと自尊心を保てない可哀そうな連中なのである。憐れんであげよう。

 

ってことで、才能の価値は尊いのに違いないけど、それが全てだと思うと身動きがずっと取れなくなる

 

それを使って誰かと競うようになると猶更。本当に才能を殺すのは、周囲の理解無い声掛けと、義務感だ。もっと自分が持って生まれた他の物を愛してあげよう。

 

ってことで、精神論を滔々と語ったが、今日はこの辺で。

 

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