先日、とある方と少し行動を共にした。まぁ、共通の趣味での繋がりなので、その活動に繰り出しただけなのですが。
詳しくは書けないが、その人の人生は非常にハチャメチャで、一言で言えば自ら激動を作っているかのような感じなのだ。
―だが僕は、その生き様がたまらなく羨ましかった。心の底から憧れてしまった。僕がしたいけど、できていないことが集約されていたからだ。
今日はそんなお話。
不公平な社会で唯一平等なモノ。
その人が語っていたセリフで、すごく印象に残ったものがある。
『人間には1日みんな24時間しかないじゃん?俺はその時間の全てで、好きなことしかしたくないんよ』
―これをワガママと取るか、その人の矜持と取るか。僕は矜持と取った。何故かというと、その生き方がそれを完璧に体現していたからだ。
こっからマジで詳しく書けないが、その人はある店を創り、若くして結構な財産を築いている。
しかし店の規模が大きくなるにつれ、その人が人生において大嫌いな『自分の価値の毀損』や『理不尽を飲み込んで頭を下げること』が増えたのだという。
そしてその割合がある程度を超えたとき・・・。その人はぱったりとその店を手放したのだそうだ。
今は収入も大きく減り、立場とかも変わっているのだが、自分にどこまでも正直に生きているその姿は非常に楽しそうに見えた。僕にとっては、だけど。
そうして僕は、あまりにも濃いその人について、こうして記事を書き、人に話している。僕はその人の分身の1つなのだ。
―俺はそんな生き方にたどり着けるのだろうか?自分に正直であることは、ずっと昔にやり方を忘れ、思い出せないまま年月を重ねている。
何をしても周囲の反応が気になり、善悪を超えた入れ込みに至ることができない。結果、僕は極端に憧れる透明人間に同じとなってしまうのだ。
―そんなコンプレックスを持っているため、個性が強い生徒にも僕は憧れてしまう。だから語る。こうして僕はまた分身を作る側となる。
もちろん敗北感は無いのだが、もっとこう・・。自分って存在は、俺はどこに置いてきたのかなぁと、こういう人と接するたびに考えてしまう。
子どもの内だとしたら、探し出すのはしんどいなぁ・・。記憶の奥底にしか原体験がないからだ。今度実家に帰ったら、昔の自分に戻るべく、思い出を漁るとしよう。
だからせめてできることとして、生徒には『今熱を持って取り組んでいること』をへし折るような声掛けは、しないしさせないことを徹底しよう。
でなきゃ、めんどくさいもんな。
ってことで疲労が溜まり過ぎて支離滅裂だが、今日はこの辺で。