僕の嫌いな言葉に、『俺も大変な思いをしたんだからお前も頑張れ』というのがある。ただしこれは、文脈による。
何か作業をする際の助言として上記のセリフが飛び出したときには、僕はその人に対する信用を失うかもしれない。それくらい嫌いである。
理由は簡単で、全くもってアドバイスになっていないばかりか、生産性も皆無だし、なんならマウントを取られている気分になるからだ。
その反動で、僕にいくつもある座右の銘の1つは『怠惰は美徳』である。
今日は、『苦労は買ってでもしろ教』への異論と、『ラクすることはいいことだ』っていう持論を、まるっと書いてみようと思う。
苦労を強要することが生む謎の無駄。
突然だが、あなたは『独り占め』という言葉は好きだろうか?するのは好きって人は多そうだが、されるのが好きっていう変わり者はレアだと思われる。
・・・しかし、あなたが過去に、何かしらで苦労をしたことを思い出してほしい。
例えば、ノーヒントで仕事を振られ、車輪の再発明みたいな作業に膨大な労力と時間を取られた、みたいな。
そして自分の後輩か誰かが同じような仕事を振られ、前任者と言うことであなたに助言を求めてきたとしよう。
それに対し、『自分で考えろ』とか『俺も苦労しながら独力でやった』というマウントを取ったとき、それは経験値の独り占めと同義である。
少なくとも僕は、二度とそんなヤツに相談はしない。下手すりゃ見限ってしまうかも。
そしてこれは、特に組織全体においては色々と大きなロスとなる。
まぁまず、アドバイスに対しマウントを取るような人徳の無い人がトップに座っていると・・・。多分人材の流出が加速する。これは想像に難くない。
また、アドバイスひとつで誰かの作業がラクに超短縮できるのだとすれば、そこで浮いた時間を使い、他のことがサクサク進むことは容易に想像できるはずだ。
それだけでなく、ウェットな話をすれば、その後輩に対し徳を積むことが可能となる。少しドライに言えば、無自覚な『貸し』である。
つまり、押しなべて言えばアドバイス一個に対し、得られるリターンが猛烈にデカいのだ。勿論、ある程度説明のクオリティは必要だけど。
―ここまで述べた上で、『いいや、俺も苦労したんだから、自分の頭で考える経験を積むべきだ!!』と思われるのであれば、これ以上言うことは無いです。ハイ。
・・・ってことで以下、ラクすることが大好きな僕が、生徒に対して行っている取り組みをつらつらと書いてみましょう。
4000時間勉強すれば東大に行けるのウソ。
例えば『猛勉強の果てに東大に行きました』という文言には、確かに心惹かれる何かが含まれている。それは否定しない。
だがそこには絶対に但し書きが付いている。『正しいやり方で、ですけどね』というそれだ。
ハッキリ言って、効果的で効率的な学習と生来の才能が組み合わさっても、ン百時間が必要な世界がいわゆる高学歴層なのだ。
断言するが、教科書を延々とノートに写す勉強を1万時間やっても、ちょいと字が綺麗になって終わりではなかろうか。
もう何度も何度も何度も何度も生徒に言っているのに、まだまだまだまだ定着しないのがそれだ。
『お前らがしてんのは勉強してるフリだろうがぁああああ!』
―というバーストストリームを、何度見舞ってやろうと思ったことか。いずれも堪えたけど。
道は長いが、生徒には常々、『人が1時間掛かることを30分でできないか、そういう方法は常に考えなさい』と刷り込んでいる。
つまり、『どうせするなら、ラクするために苦労するんだよ』ということだ。
『純粋に長距離を走るタイムを競うレース』とかであれば、トレーニングに打ち込む前に、『車やバイクを用意する』みたいな発想が大切と言う話。
より少ない時間でより効果が高い学習法は今でもずっと探しているし、試してもいる。なんならたまに、実演もする。
ラクすることは無条件で悪なんて論理はクソだし、苦労すれば無条件で尊いという論理も思考が止まっている。
というか何なら、今この世にある発明品のほぼ全ては、『ラクしたいから、便利になりたいから』という欲から生まれたものだ。
穴を掘っては埋めるのを繰り返すような時間は、尊いんじゃなく哀れである。世間はそういう価値観になりつつあるのだが、まだ多数派では無さげ。
出来ることは微々たるものだが、僕は『ラクして成果をだした生徒』を素直に評価したいです、はい。
ってことで今日はこの辺で。