―過去何度も、胃袋から先の臓器が口から出そうになるほどのプレッシャーを感じたことがある。
英検二次試験の面接だとか、大学二次試験の本番だとか、チャンスどころのバッターボックスとか、100人くらいの前で説明する直前とか。
多分僕はそこまで緊張に弱いタイプじゃないんだろうけれど、こういった場面の前は大体、ずっと胃液が食道までせり上がり、ひたすらにウプウプと言っている。
―こういう時、『俺ならできる!!』と考える人がいる。生徒の中にも、もちろんいる。
だが、実はこういう根拠のない自信で本当にそうなれるのは、日本人の3%程度という話はご存じだっただろうか?
97%(僕含む)は、『え、何で大丈夫って思えるの?』みたいな、自分から自分への突っ込みに終始し、結果メンタルに良い影響をもたらさないことがほっとんどだ!
―ってことで僕は、生徒にはそういう根拠のない自信とか要らん!!ってのをずっと説いている。そして代わりに、あるものを持てと説いている。
それは『極端な経験』である。そっちの方が、自信というよくわからない謎を拠り所にするより、ずっと健全だからだ。
けふはそやふなはなしなり。
大学受験の前、英検の前。勝負所を前にして、僕は何を思い返していたか。
成果の出た模試を思い出して、『自信持てよ!判定は悪くねーじゃん!』という自分への応援?いや、そんなんは微塵もない。
『周りの奴らはじゃがいもだ!いける!』なんて無責任なことも考えていない。(てかこの声掛けでラクになる人っているんかな)
僕が本番前に思い巡らしていたもの。それは、そこまでに積んできた努力である。
例えば、勉強合宿で15時間机にかじりついたあの日。
合計500時間くらい勉強したこの夏。
大晦日に解いた3000問テスト。
卒業式のアレみたいだが、こういうのをずっと思い返していた。すると、何が起きるか?
『あの経験に比べたら楽だろな』とか、『あんだけやったんだからそこそこは戦えるやろ』という余裕が生まれたのだ。
これは言い換えれば、『根拠のある自信』であり、過去の極端な経験により、試験という舞台の緊張度合いが相対的に下がったということでもある。
ラーメン屋で手を挙げて『すいませ~ん』ということでさえ、『声が裏返って笑われたらどうしよう』と病的なまでに気にしすぎ人間な僕だが、ハッキリ言う。
『お前ならできる』と1万回言われるより、自分の中で『極端』と言える経験(≒準備)を1つでも積んだ方が、遥かに気持ちは楽になる。
サクサクと効率ばかり重視して最速で昇っていきながら、最後の最後で崩れて涙を飲む生徒。
がむしゃらに取り組み、それでも判定はキワッキワなのに、土壇場で踏ん張れる生徒。
この『受験には魔物が棲んでいる』と形容されるマジックも、『極端な経験の有無』がその一因になっているような気がしてならない。
というわけで、決して楽ではないが、自分が胸を張って『極端』と言える準備を、是非重ねてみてほしい。
よくわからないポジティブワードを読んでいる暇があったら猶更だ。一週間に80時間くらい勉強すると、見える世界は色んな意味で変わるし、目も爛々と輝いてくる。
もちろん効率を重視するのも大切だし、僕自身、効果がない勉強法はどんどん捨てていくべきという信念は変わらない。
しかし、スマートに行き過ぎると、ちょっとの動揺で総崩れというリスクがどんどんと膨らんでいく。それを『極端さ』で潰すのだ。
少し熱い話になっちゃったが、いかがだろうか。
では今日はこの辺で。