世知辛い話なのだが、やっぱり『才能』は厳然と存在するらしい。
いくら『天才』が受けた・歩んだのと同じ道を進んでも、自分が『天才』になれるわけではないのだという。まぁ、『知ってた』っちゅう話なのですが。
例えば僕が今から10000時間投資しても、多分数検1級には受からない。世の中には10代頭でそれに受かっちゃう人間もいるのに、だ。
同様に、中3の時点で東大レベルの水準まで学習が完了している化け物もこの世にはいる。そういう存在を考えると、ほとほと努力がイヤになってしまうぜ。
しかも現実は厳しいことに、このレベルまで行かずとも、その界隈における秀才は、各学校に必ず数名はいる。定期テストノー勉で9割超とか、そういう生徒たち。
そういう存在を目の当たりにして、努力を放棄したくなっている生徒は本当に数が多いくらいだ。見てて本当にいたたまれない。
だからここで、厳然と存在する『才能の壁』ってのを考えたいと思う。
『自分の可能性に蓋をするな!』って言葉はマジで嫌いです。
ある印象に残っている生徒がいる。その生徒が目指したのは、県内一の偏差値を誇る学校だ。
しかし当人は、そこのボーダー(ぎりぎり合格ライン)に250点満点のテストで100点くらい足りてない状態であった。
当然遠回しに本人にもご家庭にも事情を説明したが、『諦めなければなんとかなるんですよ!!』という徹底した根性論で一切聞き入れてもらえなかった。
もちろん本人も頑張っている風に見えたが、やっていたことは悲しいことに教科書の語句をノートに書くとか、同じ単元ばかりの復習とか、そういうのばかりであった。
方法についてアドバイスももちろん伝えたが・・。ま、想像の通りである。結果も推して量るべし。
この生徒の背中を押したのは、『自分の可能性に蓋をするな!』みたいな激かもしれない。もしそうなら、マジ無責任なことをしやがってと、本当に思ってしまう。
『自分の可能性に蓋をするな!』という言葉は、頑張りぬけば、諦めきらなければ、必ず最後はどこへでも行けるという夢のようなニュアンスがある。
冷静に考えれば、もちろん、そんなこたーない。僕が今から努力しまくっても、NBAの選手になれるわけがないのと同じだ。
高みを目指すってことは、ある程度までなら自分を引っ張る原動力になるが、度が過ぎればマイナスに作用する実はコワイ考え方なのだ。
ハッキリ言うが、確かに"正しい"努力をすれば、現状からは絶対に成長する。だがそれがどこまで伸びるかは、冷静に見極めた方が良いという話である。
成長が見込めない分野に資本を投下するのは、投資においては愚かなことだと言われる。それは自分が持つ才覚にも当てはまる。絶対に。
みんなは赤司征十郎ではないのだ。何でもかんでも無駄に1万時間も突っ込んではならない。強くそう思う。
『自分が目指せる限界』を追いかけるのはOKです。
こんなことをいうと『努力は無駄!』と捻くれるヤツがいるのだが、全てのポテンシャルが一切初期値のままなのは頂けないので、努力はマストである。
しくじっちゃならないのは、ゴールの方だ。荒唐無稽なゴールを描くのではなく、現在地+αを繰り返したらどこまでならいけるかというお話。
これまた一般論だが、1年で成績が別人みたいに伸びるケースは極めて稀であり、悲しい話だがセンスがあるのに勉強時間がゼロみたいな特例でしか、まず起こり得ない。
少し計算してみたことがあるのだが、250点満点のテストなら、大体1年間で20~45点くらい伸びるのが平均値である。
ってことは、合格ラインが200点の高校を目指すとして、初回が130点とかなら、悪いことは言わないので志望校再考となる。
もちろん眠っている才能が覚醒する可能性もあるのだが、遅くとも夏には見切りをつけるべきだろう。
『昨日の自分より今日の自分を繰り返したら、どの辺までならいけそうか?』
これは非常に志が低く聞こえるが、実は数多のビジネス書でも説かれている教えなのだ。
つまり、無理して遥かに高いグループにいくのではなく、自分が勝てるフィールドや集団を探したり創ったりするのが大切なのだと。
実際僕は、『これだと一番になれねーな』とか『やっててつまんねーな』ってことを捨てまくった結果、やっと自由とかそういった何かを掴めるようになってきている。
『才能が無いと悟ること』は別に、『その人そのものの否定』ではないのだ。僕はサッカーの才能は無いが、それすなわち僕が全てで無価値とはならないということ。
また、頂点にたどり着けなくても、自分にとってのベストを目指すことはハッキリと有意義だ。灘に受かるばかりが、受験の成功じゃないという話。
自分にとって極端すぎる努力については、どのタイミングであろうと、疑問に思う度何度でも顧みてほしいテーマである。
では今日はこの辺で。