僕は英語をある程度読めてある程度書けるが、日常生活で使うという経験が乏しすぎるのもあり、聞くのと喋るのとがムッチャ苦手である。
英検1級でもこの2つは本当に足を引っ張りやがって、最後の方は自分のキャパを軽く超えた学習を重ね倒し、何とか当日はボーダーを超えたというのが正直なところだ。
多分今二次試験をアドリブで受けたら、笑えるスコアで普通に落ちる。それくらい僕はそれらの能力に難儀しているのだ。
ーしかしハッキリ言うが、それで別に困ったことは一度もない。講師という仕事においては、せいぜい読めれば仕事として御の字なのだ。
だが、最近の英語教育のカリキュラムを観ていると、マイノリティを完全に切り捨てた何かが見え隠れして、大げさでもなんでもなく慄然としてしまう。
『4技能全部できて、初めて英語ができると認めます^^』
もはやこれは新制度下において、メタでもなんでもなく明言されているかのような圧を感じて仕方がないのだ。救われるより手放される生徒の方が、確実に増える。
今日はそれについて、2技能しかできない僕からちょちょいと書いておく。
ここ最近、どう頑張っても『英語』からは逃がさないという執念が強く感じられる。上手いことすれば躱せる数学とかと違い、受験科目綱に英語が無い方が稀だ。
―だが、単に本人が努力をサボっているとかでは説明がつかない理由で、英語ができない生徒というのは一定数存在する。
例えば、有名どころなら『ディスレクシア』だろう。診断は受けていないが、どうしてもそうではないかと思える生徒も、実は何名か在籍している。
その内の一人は、高1になってもスペルを覚えられるのは『popular』くらいの文字数が限界だ。つまり言い切れば、『英語が頑として書けない』のである。
だから単語テストは毎度絶対に追試だし、もはや苦痛を通り越してスルーできるようになったと当人は笑っていた。だがそれを聞いて、僕はひたすらに辛かったなぁ。
しかもダメ押しなことに、英語のテストはほとんどが記号ではなく筆記。読む方も顕著に苦手であり、こないだ遂に素点で欠を取ってしまった。もちろん救済措置は無い。
・・・ぶっちゃけ、こういうデリケートな分野は、『当人の努力不足』ということにしておいた方が現場の対応として非常に楽である。
悲しいかな、専門的に対処するための知識はおいそれとは得られないし、プロを雇う余裕もまず無いだろうし、そもそもプロっているんかいな、と。
そしてもちろん、その役目を教員に押し付けるのは論外だ。多分これからは英語のせいで教職を諦めるって人も増えそうなので、ダブルパンチ待ったなし。
『英語ができる者にあらずんば、学生にあらず』
みたいなことをやり続ければ、なんか新たな身分差別チックなことになりゃしないかと、僕はかなり先の価値観において危惧している。
・・・・・・そろそろ本題に入ります。
ぶっちゃけ、4技能のどれかができないというのはよくあるが、4技能全てが先天的に壊滅しているというケースも、そこまで多くない。
例えば読むことさえできるなら、翻訳家に求められるスキルとしてはほぼ完了しているし、書くことさえできるなら、ちょっとしたライターもできる。
聞くことさえできるなら相手が言わんとすることはわかるわけだし、喋ることさえできるならこれはマジで大体何でも何とかなる。
4技能全て揃った人間というのは確かに魅力的だが、ぶっちゃけ全て出来る存在としてはAIという絶対的なモノが既にあるので、目指すだけなんか滑稽である。
―まとめます。
4技能全て出来ないと学校教育では評価されないが、一度社会に出てしまえば4技能全てを使う方がやっぱり稀である。
とりあえず僕は、英語を喋ることは依然としてできないけれど、英語の論文とかを読むのはあまり難儀しないので、ある種満足している。
最終的には、例え当人の英語が壊滅していても、英語が超できるヤツと友達になればそれでいいのだ。
だから、学校教育で評価されなくても、それは社会において必須のスキルに落第したというワケではない。在校している間は辛いだろうが、割り切ってくれればと思う。
正直に言うが、その内英語が苦手な人の技能を補うテクがもっと発達し、それさえ使えばネイティブと遜色なくやり取りできるという日も、思っている以上に近い。
そんな世の中がくれば、僕の『1級』という肩書も『で?』というリアクションになるのは容易に想像できる。
多分僕自身もそう思うだろうし、それによって幸せになる人たちの数を考えれば、むしろそうなればいい。肩書より、努力した経験の方が僕にとっては大事なのだ。
・・ということで、何度か電話とかで中断されながら書き上げたため、よく読み返せば全然まとまってない。ま、いっか。
なんかこう、ぶち上げるのは良いけど、セーフティーネットは手薄だよなって。そう思えてしゃーない昨今です。
では今日はこの辺で。