精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

国・数・英ができるようになれば、人生イージーモードだと思う。 ―それは何も進学のみにあらず

最近ようやく、∑の意味がわかりました。ロックマンに出てくるボスキャラとは全然関係なかったです。中元です。

 

さてさて。ここ数年全然聞かなくなったが、なぜ『国数英』が義務教育のカリキュラムなのか、納得できないという生徒は結構いた

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日本人なのになぜ国語を?外国に行かないのになぜ英語を?そもそも使わないのになぜ数学を?

 

・・・ぶっちゃけ最初のヤツは論外なのだが、あと2つは僕自身もガキだった頃に強くその印象を抱いていた。正直、納得いく答えを人から聞いたことは無い。

 

だが最近、色々あって再び数学を勉強するようになり、『その理由』がわかるようになったし、英語も1級を取って初めて、色々とそのメリットがわかるようになった。

 

今日はいつも以上に抽象的な記事になるが、どういうことか書き倒してみる。

 

 

武器が1つしかない人間の弱さ。

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『物事を多角的に見れること』というのは、教育の「ねらい」の頻出ワードである。要するに、1つのテーマに対し、色々な目線から解釈をするという感じだ。

 

例えば『江戸時代』と一口に言っても、経済・医療・交通・事件・政治など、切り口はそれこそ山ほどある。どこから見るかで、全く違った印象になることも珍しくない。

 

これは社会に出てから、というより「社会」的な色々なことに接する際に絶対必要なスキルなので、これを修得することは大切だと、みんな思っていることだと思う

 

しかしこれを生徒たちに伝えるのは非常に難しい。理由は簡単で、学校以外の世界は大人の世界であり、軽々しく関わるのはタブーみたいな感じがあるためだ。

 

『お前らは義務教育を一生懸命してろ!それは大人になってから使えるんだ!どういうことか?うるせぇ、黙って勉強しとけぃ!』

 

・・・平成中期は割と普通にこんな暴論がまかり通っていたが、僕はこれでケリをつけられるのが非常に嫌だった。そりゃ、勉強もサボりますわ。

 

ただ不思議なもんで、いい大人になってくると、国数英の学習を通じてどんなスキルを身に着けてほしいのか、段々とわかってくるのです。

 

まず、言わずもがな感のある『国語』。これを学ぶ意味は何かというと、難しく言えばリテラシー』を得るため。書いてある情報を正しく咀嚼する力。

 

このリテラシー』が無いとはどういうことかというと、全てを主観的に解釈して、自分勝手な考え方に基づき受信・発信する、ってことじゃなかろうかなと。

 

つまり、『正確な』物事の形を捉えられなかったり、『疑う』ってことができなかったり、逆に『助言』と『批判』の区別ができなかったり、デメリットだらけなのだ。

 

国語の学習を怠ると、SNSで炎上に加担したり、フェイクニュースを妄信したり、簡単に甘い話に引っ掛かったりする確率が爆増するのではと感じている。

 

不思議なもので、国語の点数が低い生徒程、ゴシップ好きな傾向が強い印象がある。学校内の色恋沙汰とか、眉唾なものを確信を持って言いふらす。胃が酸っぱくなる。

 

・・・はい。続いては『英語』について。シンプルに得をすると感じていることは、単純に情報の参照元が増えることである。

 

受験勉強を通じて、話せないけど読めるようになった恩恵で、大体どのジャンルも読むことは出来る。(予備知識の乏しい医学とかは無理ゲーだけど)

 

すると不思議なもので、自分が知りたい事物について、勝手に二通りの解釈が完成するというメリットがあった。つまり、日本語と英語である。

 

パッと例は浮かばないが、例えば源頼朝の英語版wikipediaを読むと、『この語句にはこの単語を使うのか~』って意外な発見が多く、面白かった。

en.m.wikipedia.org

 

じゃ、最後。『数学』。僕は数学ができないのだが、勉強しながら最近ふと悟ったことがある。

 

『俺はマジで問題を発見する力が弱いんだなぁ』

 

というものである。どういうことか?

 

微妙過ぎる自慢だが、実は小3まで100マス計算の速度はクラス1~3位のどれかであり、計算そのものは実は得意寄りなのだ。

 

実際二次関数・三次関数・微分積分といった、計算だけしときゃいい的な分野は大学受験でも少しは戦えていた印象がある。

 

しかし、そもそも何を尋ねられているか全くわからない分野は壊滅的で、数列・ベクトル・合同・相似とかは最初っから解くのを諦めていたくらいである。

 

つまり僕は、問題は何かをつかむ力が弱い。そしてこれは、日頃仕事をしていても本当にそうだと思う。

 

日頃から読書をしたりYouTubeを観たりして情報だけはいっちょ前に持っているのだが、今がそれを使える場面なのか、使うならどれなのか、実は未だにわかってない

 

そのことにピンと来たのは、以下のサイトをぼけーっと眺めていた時だ。

manabitimes.jp

 

そしてその中の、この一節。

 

数学は 「こう定義すればこうなる」という主張を積み重ねていく学問です。なので,定義があいまいな状態では数学は使えないのです。

あいまいな概念には数学的な議論は使えない。だから議論する前に定義を明確にしよう!というのが今回の教訓です。

 

・・・これを読んだ瞬間、タイトル通りのアイデアを閃いたというわけで。

 

文系的な考え方に終始していると、抽象的でもわかっちゃうので、それでよく思える。ただし、いざ何か物事を解決しようと思うと、それじゃ甘いのだ。

 

考え方を切り替えねばならない。自分が持っている武器を使えるように、起きていることをまずは定義しなければならないのだ。

 

平たく言えば、これこそが『数学』を通じて鍛えるべき力であり、数学が得意な人はなんか仕事ができそうというイメージの正体だと、今は考えている。

 

どれだけ計算が早かろうが、使う公式を間違えたら終わりなのである。問題の正体がわからないと、始まらないのである。

 

期間限定のつもりで続けている数学の勉強だけど、これは日課に組み込もうかな・・。でもま、正体がわかった気がしてちょっとほっとする。

 

ってことで取り止めがあんまないけど、今日はこの辺で。

 

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