最近イライラすることが減った結果、そうすることでだいぶ損してたんだってことに気づいた中元です。うーむ、感情論ってなにも解決しなんだね。
さて。過去の記事の話なんですけども、ちょっと前に僕はですね、「頭のいい人の話って、何で頭がいいって思わされるのかな」ってのを考えたんですね。
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で、その結論は何かというと、そういう人達は一次資料を参照にして二次資料を発信しているということです。
簡単に言えば、データであったり、その人の実際の経験であったりという【事実】をベースに、それを考察して新しい結論なり知見なりを伝える感じですね。
料理で言うならば、材料を自分で集めてきて、そこからオリジナルの料理を作ることができる人たちみたいな感じです。
しかし、かくいう僕も、単なる事実を考察し、普遍的な何かを取り出すというのは非常に苦手と言うか、そもそも経験値として乏しいです。
じゃあ、僕は永遠にそっち側の人にはなれないのか?しかし、実際のところ、例えばYouTuberを見ていても、学歴とかその辺関係なく、二次資料を出せてる人がいる。
それはなぜか?実は、二次資料を作るのに必要なスキルは、何も論文とかデータとかを読み漁るものだけじゃないからです。
しかもそれはさすがに僕でもできて、多分中学生でもできます。今日はその初歩的なステップについて、少し語ってみようかなと思います。
一次資料と二次資料って?
まずその前に、一次資料と二次資料って何なのか、ざっくりおさらいしておきたいと思います。
一次資料とは、本当にただのデータとか、偉人のことを書いた日記とか、すべての考察のもとになる何か。料理で言うところの材料です。
そしてそれらのデータを基に、仮説立てたり考察を加えたりした結果作り出されるのが、二次資料という感じです。こっちはまさに料理そのものですね。
ここだけ取り出せば、一次資料を探す力、それを分析する思考力、さらにそれらを言葉にまとめる文章作成力が問われて、目まいがしそうな感じさえしちゃいますね・・。
しかし、冷静に考えれば、一次資料ってなにも百葉箱とかで蓄積したデータだけを指すものじゃないんですよね。考察の材料でさえあればいい。
ということで以下、それについて書いていきます。
実は、誰でも一次資料は得られます。そして二次資料も作れます。
考察の材料でさえあれば、それは一次資料。
それを踏まえれば、例えば自分が経験して感じたことは、立派な一次資料といえないでしょうか?
つまり、何かを体験・経験してみて、その時思った感想、時系列の記録や、その最中の発見といったものは、誰もまだ文字にしていない立派な一次資料ということです。
どういうことか?実際に最近僕に起きた事例で説明しますね。
こないだ、僕のパソコンがぶっ壊れたんですよ。画面が起動せず、うんともすんとも言わなくなるという状態になりまして。
最終的には別のを発注することになっちゃったんですけど、その症状を調べたところ、同じような不調に悩んでる事例って結構あったんですね。
しかも症状は同じでも、たくさんの原因がまた別々にあって、それぞれに複数の対策法があってと、どんどん樹形図が伸びていくかのようで、本当に大変でした。
そして僕のパソコンの場合は、載っていた手段を次々試しつつも、その全てで効果を確認できませんでした・・・。
ただ、キーボードが光っていたり、少し音がしたりと、どうやら動いてはいる感じがしたんですね。
だからプロジェクターをつないでみたところ、なんとか画面が見れたんですよ。だからデータは取り出せたわけで、そこまで被害は出なかったです。
さて。この画面つかないけど実は起動しているケースっていうのは、ネットで見るとほぼ存在しなかったんです。
ということは、もしこれを僕がブログ記事が何かに書いて投稿すれば、僕の体験という一次資料に基づいた考察やまとめなので、つまり二次資料なんですね。
ぶっちゃけ仮に似たような事例が山のように存在しても、完全に100%同じ経験をすることってまずありえないので、頑張って言語化したらそれは立派な二次資料です。
なので、データが苦手でも、色んなことに見て触れて経験して、それを人に伝えようと書いたりしゃべったりすれば、自動的に二次資料ができています。
そしてそれは、ある意味あなた独自の作品で、つまりオリジナリティがそこに出ていると考えることもできる。個性とはつまり、発信することだと、僕は認識してますね。
ただし、個性の出しどころは結構難しい。
YouTube観たり、Voicy聴いたりすると思うんですが、今の世の中ってオリジナルの二次資料を作れるか否かで、個々人の価値が結構決まってる気がします。
何故かと言うと、ただ情報集めてきて、それをまとめて一つの場所に置いておくことは、割と誰でもできて、かつ別に人間がやらなくてもいいことなんですよ。
しかしことさらにこれを強調すると、何でもかんでもオリジナリティ溢れるものを作らなきゃいけないって風な価値観を抱くケースもあるので、ちょっと釘を刺します。
例えば僕が今から、オリジナリティあふれる be動詞の授業とかをするかと言ったら、絶対しないです。超基本的なところに独創性とか出しようがないからです。
逆に、基本的な所でクセがすごい独特な教え方をする人がいたら、それはちょっとどうなのって正直思っちゃいますね。
工夫を入れるのって、そこじゃねえだろ、と。
僕は、むやみやたらになんでもかんでもオリジナリティだの個性だのって浅い考え方にも反対です。
はっきり言って、ある程度のところまでは、人のコピーをしたほうが、到達できるのに必要な時間も労力もだいぶ減らせます。
そうやって知見を得ていって、やがて二次資料を調べても出てこないとか、まだ改善ができるって思える段階がきたりすれば、そこで個性を出そうと頑張ればいい。
あるいは、二次資料が存在しないニッチな単元や、自分が好きな分野の話とか、そここそがオリジナリティを出す最初の部分じゃないかなと思うんですよね。
こういうのを考えると、もっと学校とかで【発信】の仕方を学べたらいいよねと思いますね。
読書感想文とか川柳とかも表現というツールとしては別にいいとは思いますけど、書く以外にも様々な伝え方があることは、やはり早めに仕込んでおいた方がベター。
最悪、書けなくても喋ればいいんですよ。もちろん声の質とか抑揚とか、大事な情報って色々ありますが、テーマさえ面白ければ口下手でも面白いものなので。
しかもそれは、数をこなすとだんだん上手になっていきます。周りの友達を見ていても思いますし、自分事としても感じます。
例えば僕、ブログ始めた最初の頃の自分の文章読むの、嫌いなんですよねー。なぜかと言うと、下手くそだから。
ではなぜ下手くそに今感じるかと言うと、今なら守れる基本的な構成や、説明のテンプレを、当時の自分が守ってないからなんですよ。
つまり少なくとも「過去の俺下手やな」と今は思える程度には成長してるってことなので、そこはある種楽観視してもいいんではと思います。
最後はちょっとぼやきでしたけど、乱暴にまとめましょう。
「二次資料を作れるのが頭がいい人の特徴だよ」とは言いましたが、「じゃあ俺論文読めねえから馬鹿だ」とか、短絡的に思う必要はありません。
自分の経験や体験をベースに、新しい知見やアイデアを語れれば、それも十分価値を持つので、発信の仕方を勉強するのをオススメします、って話です。
そういうメッセージが伝わっていれば嬉しいです。では今日はこの辺で。