夢の中でうちはオビトの神威を使えた中元です。明晰夢ってみれるんですねぇ。
さて。夏季講習でリクエストが出たので、大変な思いをしながら共通テストの古文・漢文を解いている。
・・・つくづく思うのだが、僕は高校で大真面目に習う科目(時には二次試験レベル)に、古文・漢文がある意味があまりピンと来ていない。
実際に「学習の狙い」を読んでみたが、やっぱりどうしても、ピンとこない*1。↓
古典 助動詞を習得する。和歌の表現方法を学んで古人の思いに触れ、また説話・軍記物・歌物語を通して、古文独特の世界に親しむ。
今日はそれに関する屁理屈をブーブー書いてみる。
まず助動詞を習得するというのは、多分現代の日本語とはルールが異なる言語の習得を目指すことみたいな狙いがあるのだと思う。
・・・これって英語で十分じゃね?というか、ルールが異なる言語からメッセージを読み取るという訓練は、英語でもできるし、英語の方が大変だとも思う。
また、和歌を通じて古人の思いに触れるとあるが、そうであるならこれでテストを作ってはいかん気がする。
特に鎌倉時代くらいは、【幽玄】という一読したり一聴したりしただけではわからない、奥深くて幻想的な歌が大流行したのもあり、言ってることが本気でわからない。
歌人をあの世から穢土転生して問いただし、きちんと真意を確認したとかなら話が別だが、実際はそんなことはできないわけで。
「メッセージはわかる人にだけわかればいい」というのが本当のところじゃなかろうか。つまり解釈など、誰がどう考えても正解になるものなのだ。
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする
という和歌がある。これについて、「愛の歌」と解釈しても、「ちょっとメンヘラな何かを感じる」と解釈しても、前者が正解で後者が不正解と線引きするのは難しい。
また、古文独特の世界に触れるにしても、原典からそれを考察するのを強いる理由は何なのだろうか。
例えばアメリカに行きたいと思う日本人は、多分日本語で書かれたサイトから先に見ていくだろう。
それと同様に、古文独特の世界を考えるなら、それをテーマに二次創作された作品を見せてもらった方が有難いし、多分理解できると思う。
NHKの大河ドラマを授業の冒頭で流してくれれば、衣装も、思考も、文化的背景も、すんなり理解できるだろう。
そういうのをノーヒントにしたり、古文単語暗記といった自助努力に任せたりするから、ヘンな手ごたえの時間になっちゃうのでは、とさえ思う。
・・・そして何より致命傷なのが、広く課される科目の中で唯一レベルに、古文を読めることの実用的な有用性を感じないことである。
「いや、宇治拾遺物語に書いてある知見は、現代でも使うことが可能なのだ!お前の考えは浅い!!」と言われるかもしれないが・・・。
そんな過去にまで遡らなくても、そういうヒントは絶対に見つかる。断言する。
むしろ仕事や人間関係で困ったことがあるからと、原文のままの古典文学を参照する人は、色々変なことしてない?と心配にさえなってしまう。
というか過去の古典文学の中から、実社会で使えそうな考え方をまとめた書物は、コンビニで500円払えば買えるレベルに世の中へ溢れている。
なんか考えれば考えるほど、「好きな人がやればいいもの」という疑念が膨らんでいく。せめて、入試科目に課しまくるのはぶっちゃけ、止めてほしい。
ということで今日はただの愚痴なので、この辺にしておく。