2日でタマネギを丸ごと2個食べたら体調が悪くなりました。身体に良いとされるものも、食い過ぎたら毒。そんなことを学んだ中元です。
さて。【自由な思考】とか【想像力】といった、微妙によくわからない能力を持った子供を育てるには、常識を疑うことが大事だとよく言われる。
これは言われてみればその通りで、普段他人が疑問に思わないところに疑問を持つことができれば、ひろゆき氏がいうところの【頭がいい人】になれるわけで。
ただし、闇雲に常識を疑っても、単に結構ウザいだけなので難しい。例えばなんで1分は60秒なのか必死に考えても、多分新しい洞察は得られない。
―では、どういった類の【常識】ならば、疑っていいのだろうか?僕自身この問いには結構頭を使ってきたが、最近ふと閃いたことがある。
それは、「【常識(≒慣例)】によって、納得できない実害があったときじゃね?」というものだ。
今日はそれについてつらつらと。
「常識だろ!」
そう思ったきっかけは、季節講習のコマを組んでいるときにある。どうしても日程の関係で、マッチングが上手くいかないケースが1つあったのだ。
「この講師を充てると、日程が取り切れなくて厳しい、でもこっちの講師を充てると、こっちはこっちで日程が難しい・・」
というときに、ほんと何気なく、
「あれ?そもそもレギュラーではない季節講習なのに、全コマ同じ講師にしなければならない理由ってなんだ?」
と気づいた。年単位で続くレギュラーなら、「今回この人、次回あの人」ってのは確かにマズい。(自動車学校ならいいけど、これも長くて数ヶ月だし)
しかし、いわば単発である夏季講習にまでその制限を入れるのは、果たして妥当なのだろうか?それによって不必要に、自分の首を絞めちゃいないだろうか?
むしろ、得意な単元だけをピックアップして受講できるわけなので、生徒としてもメリット多くないかと、そんなところまで考えつく。
ってことでその方向で人選し、生徒のスケジュールを確認したら、あら不思議。秒でコマ組が完成してしまった。悩んだ数日、なんやったねん。
ちなみにこれ、バレたら多分上司からブチ切れられる。
しかし、「常識だろ!」という叱りつけ以外の根拠が示されなければ、「すんません」と言いつつ内心は晩御飯のことでも考えるつもりである。
基本、常識を疑ってそこから外れれば、反発はあるものだ。たとえそれが正解であっても。ただし、そんなもん後にならないとわからないので、100%最初は怒られる。
それくらい図太くあろうかなと、今は独り言ちている。
障壁が常識のときに考えたいポイント。
今回の流れを抽象化すると、以下のようになる。
最初のステップ:何かを実行したいとき、【常識(や慣例)】”だけ”がその邪魔になっている
例えば、「授業は同じ先生が持つべき」「日程は必ず同じ日にするべき」といった具合だ。
そしてここをチョイと考えて、以下のどちらかが判明したら、具体的にそれを破る方向に案を進めてもよさそうだ。
1:感情論ではない根拠が、実は無い
2:反例が既に存在している
今回の場合は、某衛星予備校や某個人塾など、単元や日によって先生が違うのにモデルとして成功しているケースがゴロゴロあったので、思い切ることができた。
尚、僕が勤務し始めて、保護者へのアンケートの中に1つだけ「先生は固定してほしい」というご意見があったが・・。(留学等で2~3回変わったというケース)
逆に言えばそれだけしかないのだ。しかもそれはレギュラー授業の話。単発でその不満が出たことは、ぶっちゃけ無い。記憶にある限り、無い。
こういったアレコレまで考えた結果、今回僕は今まで”なんとなく”誰も採ってこなかった手を使ってみた。
そして、だ。最後にこちらも念押ししておく。
99.9%怒られるのは覚悟しよう。
てな感じ。とりあえず怒られます。そこは承知しましょう。僕もそこは承知してます。でもま、問題解決が第一なので、僕は僕を肯定しますよ。はい。
・・・という感じで、やはり常識を疑う端緒は、大抵【疑念】に根差しているものである。
そしてその”なんで?”は、ビジネス書を読んでいるとよくわかるが、どの人も大抵意味不明な害があったときに浮かんでいる。
なんで本を買いも読みもしない素人が書評を書けるのか?なんでグルメでもなんでもない人が好き勝手に星やレビューを書けるのか?
そういった疑問から優れたサービスがぽこぽこ生まれているので、この違和感って実は大事なんだなと強く思わされる。
てなわけで、授業頭の小話のネタなんかにどうでしょう。では今日はこの辺で。