昼ご飯はクルミと鶏むね肉。脳筋弁当を職場で食いました。何を目指しているか全くわからない中元です。
さて。今日は国語の指導をしている中で、気になる生徒の様子を発見した。それは、猛烈に心理的な抵抗があって、わからない問題を飛ばせないというものだ。
例えば記述問題などで、考えれば解けそうなヤツは、そこで立ち止まってじっくり考えるってのはわかる。将棋で言う長考のようなものだ。
ただ、知らないとどうにもならない問題でも長考するのは考え物だ。例えば詩の表現技法を問う問題で、意味が分からず、停止するという風に。
でだ。このケース、実は心当たりがある。今日はその記憶をベースに、このタイプの生徒に対するアプローチを考えてみようと思う。
頑固者なのか、それとも・・・。
「問題を飛ばせない子」というのは、結構複合的な要因がある。ただしそれをずばりと指す名詞が無いため、検索をするとなかなかに骨が折れた。
僕が心当たりがあるといったのは、ADHDとかを始めとする特性の勉強をしていたころ、その特徴の1つにそれがあったためだ。
一つのことに「なぜ?」が向くと、そればかりを突き詰めて考える。他の人がどうでもいいと思えても、本人は頑として他のテーマに目を向けない。
もちろんこの特性は研究者などに向いているからと、好意的に解釈する人もいるが・・・。
頭の中に材料が無い段階で考えることだけ突き詰めても、損する場面の方がやはり大きい。それに、こういうポジティブな意味ばかりでないこともある。
「わからない」という感覚がトリガーとなり、意識がさまよって他のことを考えるモードになっている生徒も割といるのだ。(今回これを考えるきっかけになった生徒もそう)
ただ、そういった生まれ持ったスキルだけに寄与するものでもないらしい。熱心に家庭学習を受けてきた子供も、この行動を取る率がどうやら高めっぽいのだ。
参考になるのはこのフォーラムだ。
子どもが宿題をする横について、わからない問題には即座に助け舟を出す。ある種理想のような関わり方にも思えるが、やはりそれにも罠があるっぽい。
頭から順番にやっていかねばダメだ、解けない問題があってはダメだ。そういったメタがガンガン刷り込まれて行ってしまう可能性がある。
すると、解けないことに強い恐れを抱き、結果飛ばすという行為が選べなくなるというワケ。(クモ恐怖症の人がクモを触れないのと同じじゃないかなと)
どのみち、この「飛ばせない」というのは、「何度言ったらわかるの!!」という声掛けで直るわけがない、実はかな~り根深い問題だと言えそうだ。
生まれつきそれが超苦手なのか、メタに刷り込まれた結果なのか。明日には直るような方法は、多分存在しないと思う。そういうことがわかった気がする。
では、どうアプローチする?
まずは腰を据えることに尽きる。長期戦は前提だ。
こういう深層心理へのアプローチについては、結構段階を重ねねばならないとよく言われる。まずはそう、「飛ばすこと」の意義をきちんと教えることだろう。
例えば高校入試の数学は、大人が考えても難しい問題が必ず混ざる。50分くらい考えれば解けるかもしれないが、配点は多くて3点とかである。
解けたとして、それはそれでおめでとう、と。でも君が”総合で取った点”はいくつなんだい?3点でしょう?その点で入れてくれる高校は、基本無い。
こういった、飛ばす理由、もとい飛ばすことでどうトクするかを粘り強く語ることが、まずはその一歩だと思う。
頭ごなしに言うよりも可能性は高いハズだ。「掃除しなさい!」といって子どもを掃除させたことがある人は、一体何人いるのだろうか。
―さて。後は本人が「確かにトクするなぁ」と納得する場面が増えてくれば、いずれこれが落ち着いてくるとは思えるのだが・・。
正直最終的には、精神が成長してくるのを待つしかないのかもしれない。小中高と、年齢が上がってくるにつれ、【飛ばせない】生徒は確かに減ってくる。
僕もじっくりと、年齢相応のことができてりゃいいかとハードルを下げて、色々良しとすることにしようっと。
終わりに。
ということで結論はなんと、「メリットを伝えたら、受け入れてくれるまでは長期戦」というのになってしまった。まぁ、そうなるよね。
そういえば【できる人の教え方】にも書いてあったけど、「今教えようとしていることは、あなたがその子の年齢だったとき、できてましたか?」という問いがある。
もしそうでないのなら、棚に上げて考えるのはナンセンスという感じであった。僕がその生徒と同い年の頃は・・受験という言葉すら知らない、呑気な田舎者だったなぁ。
それを考えても、「ま、いっか」という結論に、やっぱり落ち着いてしまう。そういうものなのかもね。
ということで今日はこの辺で。