掃除されるのが嫌いな先輩方が、いったいどこまで掃除をしたら怒るのか、こっそりゲーム感覚で楽しんでます。中元です。
さて。今日はいつにも増して独り言である。最近、楽しみにしていたゲーム【LOST JUDGEMENT】のストーリーを終えた。
「チョー面白かった!!」という月並みな感想はもちろん持ったのだが、今回は【重厚なストーリーに圧倒!!】以上のことを思わされた。
それは、「こんなにアウトプットとして完成されたものを作るのに、どれだけの努力を傾けたんだ?」という見えないところの話である。そちらに圧倒された。
正直それが生半可じゃないところは、エンディングで流れてくる名前・会社・役職の多さを見れば察しがつくのだが、この気づきに僕は思ったことがあるわけで。
そしてなぜかこっから、「エンタメ」や「プロセスエコノミー」に通じることを次々と連想したのだ。だから頭の中はごちゃごちゃである。
ということで今日は、頭の中でもつれ倒したそれを解きほぐしていくようなイメージで、記事に落とし込んでみたいと思う。
エンタメはアウトプットの究極体だと思う。
自明のことではあるが、大作・名作の裏には、形はどうあれ膨大なインプットが隠れている。
ここを深めていくにあたり、僕がハマった数少ない小説【親鸞】を例に考えてみよう。
まず親鸞を主人公にした小説を書くためには、親鸞という人物の人生だけでなく、その思想を深く理解する必要がある。伝記を軽くなぞっただけではダメなのだ。
―それにプラスして、切っても切れない【仏教】についても、広く調査する必要がある。経典の名前を調べるだけでも大変だが、それを列挙するだけでも足りないのだ。
もちろんこれだけで物語が書けるほど、小説は甘くない。登場人物の思想・人となり、舞台の情景描写のためのリサーチ、当時の世情、などなど。
それらを組み合わせて、結晶化し、表現する。その究極体が、僕は【エンタメ】だと考えている。
体感だが、総量が100の物語を作るためには、10000くらいのインプットが必要だと思う。
実際、【親鸞】の著者・五木寛之氏が参考にした文献が確か巻末に並んでいるのだが、本棚が埋まるのではと思うくらいパンパンであった。名作の裏にはなんとやら、だ。
―だが、何も読書や興味が向かう対象ばかりがインプットではない。広義にはきっと、人生における一個人の出来事もまた、膨大なインプットになる。
己の中の葛藤を書き尽くした小説が、大作として多くの読者の胸を打つのを考えれば、ここもわかると思う。(昭和の文豪は大体これな気がする)
さて。先ほど、100のアウトプットのためには、10000のインプットが必要であると書いた。これを言い換えれば、9900の何かは、表現されずに埋もれているということだ。
設定資料集、メモ書き、没になったアイデア、人物相関図等々。この辺の資料は、列挙すればそれこそ無数である。人知れずこれらの資料は、やがて消えていく。
だが僕は、例えば一番最初に書いた【LOST JUDMENT】について、これらをめちゃくちゃ読みたいと感じている。他にもインタビューがあるなら、聞きたいし読みたい。
こう考えれば、圧倒的クオリティの作品と認められれば、捨てられたインプットにも価値が生まれるものだと考えてよさそうだ。
余談だが、おそらくこれが【プロセスエコノミー】の基本的な考え方だと思う。特にここ数年は急激に【共感】が価値を持ち始めているのもあり、この流れも納得だ。
しかしながら、これを踏まえると、プロセスエコノミーを軽い気持ちで狙いに行く塾や講師の大半が爆死するのもまた、至極納得いく点がある。
繰り返すが、10000のインプットを使い100のアウトプットが生まれて初めて、作品として価値を持つ。価値を持った作品の裏側にしか、人は興味をもたないのだ。
さて。すごく上から目線で恐縮なのだが、僕の住むエリアの塾も何件か、即座にYouTubeに乗り出したが・・・今でも続けている教室はたぶんほとんどない。
理由は簡単で、10000ものインプットを行う時間も熱量も取れないってのが大きいのではなかろうか、と。(意外と親和性が低いのも一因だとは思う)
例えば110のインプットで100のものを作っても、余りの10に価値は多分無い。相当好きか、相当時間を取れるかしないと、10000は無理なのだ。強くそう思う。
僕自身も自分の授業とかを振り返っても、【ハマった!】と思うそれは、結構なインプット・練習に労力や時間を割けたときに多く生まれている。
今は小忙しさにかまけてそこが不十分になりがちなのが口惜しい。だから今は講師の引退か出世街道を外れるかの岐路で迷っているのだが、それはいいや。
ということで、評価されるエンタメの裏には、膨大な努力が水面下の氷山よろしく潜んでおり、評価されて初めてその部分に価値を持つのだと、ふと納得できたわけで。
ってことで続いては、この気づきを踏まえた僕の変化と、その仮説を塾運営にどう活用していくか、それを言葉にしていこうと思う。
【狂愛】と【熱狂】。
羽生善治氏の著書【大局観】に、僕が今感じていることのヒントになりそうな記述がある。
「水面下の思考を立体的にして厚みを増していく」みたいな感じだったと思うが、この厚みが乏しいと、所詮メッキに等しいという具合だ。
膨大なインプットと長大な思考を基に、オリジナルを【表現】する。こういう極めて抽象的なことを、校舎運営や講師としての仕事に適応するとどうなるか。
僕は、とにかく形はどうあれアウトプットしていくことに尽きると考えている。校舎外観・掲示物・授業。なんでもいい。とにかく見えない”蓄積”を形にするのだ。
これはそれ自体、一つのメッセージだろう。例えば講師が働きやすい職場環境を整えれば、おのずと業績が上がると自分で確信するとしよう。仮説でも構わない。
その信念に従って、いろんなことを学び、アイデアをもらい、それを様々な形で現実に適応する。時には衝突する。しかし、確実に知見は得られる。
それが”厚みを増す”ってことじゃないのかなと、今は勝手に独り言ちている。ただし肝心なのは、やはりアウトプットを止めないことだ。
学んで、形にして、意見をもらって、形を変える。授業も同じだ。一度のインプットで、完全な授業は生まれない。
しかしそうやって突き詰めていった先に、長大で膨大なインプットに支えられた、圧倒的なアウトプットができる未来があるように、今は感じているわけで。
その域に行くには、並大抵の熱意や努力では無理だ。【狂愛】、【熱狂】。この次元の熱意がなければ無理だろう。
例えば僕は、勉強はやり方ひとつで、当事者比で確実に伸びることができると考えている。だがその信念が、僕の勤める校舎から迸っているかと言われれば、眉唾だ。
とはいえ、僕の我を出し過ぎると、直属の上司の信念や、会社そのものの理念とも衝突する。むやみやたらにアウトプットを振りかざすと、衝突や軋轢が生まれる。
ところが、今の世で人を惹きつけるのは、不思議なことにこの衝突や軋轢が起きている場所ではなかろうか。それでも信念を曲げない人に、共感が生まれるのでは、と。
反対意見や批判を、裏打ちされた知識や経験、そして結果ではね返す。そうやって血まみれになって初めて、僕はしたいことができる土台が作れるのかな、と。
思えば、僕が心の底から「すごい」と驚嘆するしかない方々は、いつでも何かと戦っている。しかし、常時誰かに支えられている。結果も出している。
少し脱線するのだが、歴史的に圧倒的評価を得ている作品を生み出した人達も、押しなべればすべてそうなのではなかろうか。
紫式部もベラスケスもダ・ヴィンチも太宰治も芥川龍之介も、軋轢や衝突に負けずに自分を表現し続けた結果、名作を生んだんじゃないかな、と。
となれば、こういった作品に触れることで、もしかしたらその域に立つとはどういうことか、その端緒を知ることができるかもしれない。
つまり、名作とされる芸術や小説にできるだけ触れてみることで、僕にもその一端がわかるかもしれないということだ。もちろん、わからないかもしれないけど。
いずれにしても、僕に今足りていないものは、圧倒的熱量でインプットをし、軋轢を恐れずアウトプットすることなんだろうなと、この数日で急に確信を得ている。
もっと、僕の色を。もっと、発信の場を。
となれば、目指す道は一つしかないな。今度、機会があれば、この想いを社長に直談判するタイミングなのかもしれない。
終わりに。
コミュニティ論を一時期まとめて勉強し、今はそこから結構時期が空いた後なのだが、ゲームのクリアをきっかけとして、自分の中で急に色んな島が繋がった。
非凡なものは、見えないところで圧倒的な何かがそれを支えている。作品は、それが結晶化した最たるものだ。
わかるようでわからなかった、【思考を立体化して厚みを増してく】という大局観の一節が、今はまるで違った意味を持つ、大事な言葉のように感じられる。
まだまだ僕には努力する余地がある。それがわかっただけでもめっけもんだな。
はい。ってことでマジで取り留めのないカオスを書きなぐっただけなのだが、他にどこに書き散らせばいいのかって話なので、ここに残しておくこととする。
帰ったら小説を読もうっと。では今日はこの辺で。