ダイエット生活が続いてくると、【甘味】と【旨味】に大変敏感になります。中元です。爆食解禁の日が楽しみで、楽しみで・・・・。
さて。この間お気に入りのR25というサイトで以下の記事を見て以来、マジで頭の良い人の考え方を真似するという新しい趣味が自分の中に増えてしまった。
この記事で説かれているのは、【アイデアが行き詰ったとき】の対処法について、である。そこでこの佐渡島さんは、以下のようにコメントされていた。
「僕の悩みは誰と“似てる”んだろう」ということを考えますね。
その「似てる」がもっとも遠いところで見つけられると、イノベーティブなアイデアになるんです。
―わかる、ような、わからない、ような・・・。つまり、「似てるけど遠い世界にあるもの」を探し、そこからアイデアを流用する、という感じだと僕は解釈した。
これは面白そうな思考実験である。だから紙切れとシャーペン片手に、少し頭の中をぼーっとさせて、思考のさ迷うに任せてみた。
すると、前々から思っていたことではあるのだが、ある【形態の店】と【塾】がやはり似ていることが、ぱっと閃いた。
タイトルにもあるのだが、つくづく【フィットネスクラブ】の運営と【塾】の運営は、やはり似ている。それも、システム面ではかなり、だ。
今日はまずその類似点について説明し、そこから抽出できそうなヒントを少し、考えてみたいと思う。
【フィットネスクラブ】の運営と【塾】の運営、どこが同じ?
どこが似ているといっても、やっていることはトレーニングと勉強だろうと考える限り、共通点は見えてこない。もっとアバウトに考えてみよう。
まず、フィットネスクラブは、基本月ごとに会費を払うことにより、店舗の顧客として登録される。結果、施設の利用や、身体作りの指導を受けることが可能となる。
そこには同じ【健康】といった志を持った仲間がいて、かつその競技のプロであるスタッフが常駐し、師弟として、またパートナーとして、関係を築く。
もちろん「合わない」と思ったら、いつだってそのコミュニティを出ることも可能なのだ。ただし、入るまでそのコミュニティは基本的に閉鎖的な環境である。
―どうだろうか。【身体作り】を【学力向上】に、そして【健康】を例えば【志望校合格】といった文言に変えるだけで、【塾】の説明に早変わりするのだ。
もちろんこじ付け感をぬぐい切れてないのは百も承知だが、的外れなことは言ってないよな、とも考えている。
となれば、多分【塾】における困難ごとは、【フィットネスクラブ】という文脈で考えると、新たな視点が手に入る可能性が高い。
ってことで、続いてはそれについて考えてみることにしよう。
【色】のない場所に、もう惹かれることはない。
知名度が高いジム。いつも人で溢れているジム。そういったジムにあって、僕の勤める塾に欠けているものは何か。
まず閃いたのは、そもそもこれらのジムにはほぼもれなく、圧倒的実力を持っ(てい)た人間がほぼ常駐しているという状況が考えられる。
例えばジムのオーナーがそもそもプロのボディビルダーとか、巡りあわせで超上級者が通っているとか。その存在が磁石となり、人を集めている可能性はないだろうか。
もしそうだとすれば、これを私塾に転化するとどうなるだろう。つまり、早慶上智や東大・京大卒のスタッフを雇えばいいのだろうか?
―いや、これも微妙だろうな。難関大学を突破した人間は例外なく力量に優れているが、【学習】という競技者としては、すでに現役ではないと言えなくもないからだ。
大学の学習に打ち込んでいる人間を選べばいいと思われるかもしれないが、それを売りにするには常駐を担保せねばならない。
人は常に入れ替わるし、そういう熱量を持った人間はそうそういない。引く手あまただ。これはこれで、膨大なコストである。
これを踏まえると、勉強とフィットネスは確かに似ているのだが、一つだけ決定的に違う点がある。
それは、勉強については年齢を重ねれば重ねるほど、目に見えて評価される舞台や機会が減っていくことだ。
例えばボディビルのコンテストは年齢別・階級別・男女別という風に分かれており、生涯競技者としてステージに立つこともできるスポーツである。
しかし、勉強はどうだろうか?よく考えれば、いい点をみんなが目指すのは、それ自体を評価してもらうためではなく、その先にある目的のためである。
模試でいい点を狙いに行くのも、それが目的なのではなく、例えば医学部や東大に受けるという最終ゴールのため。つまり、目標なのだ。
目標のプロを校舎に常駐させても、やはり微妙といえる。となれば、圧倒的なカリスマと私塾は、実は相性が悪いような気がしてきた。
―だが、圧倒的なカリスマという存在も、見方を少し変えると、また新たなヒントとなる。
彼ら彼女らが放つ強烈な個性は、他者に真似できない【色】を生んでいると言えないだろうか?
これだけネットが普及し、かつ価値観の転換が進んだ現在は、【信頼】であったり、【共感】であったりといった部分が評価されるとよく言われている。
こういった心の根っこにかかわるところで価値を生むためには、今まで以上に凡庸なもの、表面的なものは通じないと、そういえばどこかで読んだ。
その目線で考えると、なるほど、なるほど。成功しているジムはもれなく、【特化】していると思えてきた。
例えば、鬼のようなトレーニングを行うことに【特化】したジム。コミュニケーションに【特化】したジム。きめ細やかなアドバイスに【特化】したジム。
どれもこれもが、強烈にその【色】で塗られている。
どこにでもありそうな、誰でもできる要素を並べ立てて、多くの顧客を集めるようなモデルは、【塾】でももう無理なのかもしれない。
「成績を上げる?そんなの当たり前でしょ?それで?」
この質問に答えられなければ、終わり。では、この答えとは何か?
僕はこここそが【色】であり、繁盛するフィットネスクラブでもジムでも塾でも、どれにでも必要なポイントだとずっと考えている。
例えば校舎から、そして務める講師の言動から、一貫したメッセージを感じるか?というか僕はそもそも、どんな【色】で染めたいのか?
こういった根っこについて考えるのが、多分次のステップだと思う。奇抜なイベントも、新しい授業も、そこが無ければただの空振りだろう。
【勉学】におけるアイデンティティは何か。フィットネスクラブやジムを分析していると、面白い問いにたどり着けたと感じている。
終わりに。
似てるけど遠いものを考えたとき、僕は今自分が勤める校舎には、【色】が足りないと強く感じるに至った。
そして【色】が足りない理由は、僕にもっとアイデンティティが足りないか、その表現量が足りないか、である。
勉強について、僕は何を考えていて、何を伝えたいのか?なんか泥臭いというか青臭いのだが、ここを考えればステージが上がる気もしてきた。
はい。ちょっとどころじゃなくわけのわからない記事だったと思うけど、エンタメとして少しでも面白がっていただけたのであれば、幸いである。
では今日はこの辺で。