一日で内科と皮膚科をハシゴして、錠剤を60粒くらい貰ってきた中元です(^o^)生きてるのか、生かされているのか・・・。
はい。ルーティン日記の方ではちらと触れたが、今現在洋書をゴリゴリ読んでいるところである。
↑これね。
ちなみに【ヤバい経済学】の中では、「問題を解決するツールは揃っているのだが、面白い問題が不足しているのが、経済学の難点」だと、確か書かれていた。
それに対し、この本(≒Think Like a Freak)は"面白い問題の見つけ方"といった感じの指南書に近い印象を持っている。
同じく精神年齢が低い僕にとっては、英語だろうがワクワクしっ放しの良著だ。ただ、単語が時折難解で、ぶっちゃけ何個も飛ばし読みしてるけど・・・。
さて。その中でも今日は、別個の記事にまとめた方がよさそうなヒントを見つけたので、ここに書いてみようと思う。
題して、【柔軟な発想を育む】ヒントとでも言えようか。あるいは、問題を”見つける”基本、ってのに近い。
では以下、続きだぴょん。
あなたは、あなたのお子さんは、染まっていますかいませんか?
さっきの本の序論らへんに、面白い問題が紹介されていた。
丸ごと引っ張ってこようかと思ったが、法律に抵触したら怖いので、大人しく【似た雰囲気】の問題を作ってみることにする。
以下の文章を読んだ後、各問いに答えてみてください。ちなみに、制限時間は特にありませんよ。
ナンシーちゃん家は、お兄さん、お父さん、お母さんの四人家族です。
休日、彼女たちは四人で、お父さんの運転する赤い車でビーチに向かいました。そしてナンシーちゃんはお兄さんと一緒に、ビーチバレーを楽しみました。
お昼には海の家で買ったハンバーガーとポテトを家族みんなで食べて、それはそれは楽しかったようです。
Q1:ナンシーちゃんが乗った車は青色ですか?
Q2:ナンシーちゃんはお昼ご飯にハンバーガーを食べましたか?
Q3:ナンシーちゃんは道中、車内で歌を聴いていましたか?
Q4:ナンシーちゃんは、お昼ご飯を食べながら、レモネードを飲みましたか?
・・・この質問でわかるのは、問題に対する選択肢に【アレ】があるかないか、である。【アレ】の正体は、Q3とQ4でわかる。
ちなみに解答は以下の通りだ。あなたは、あなたのお子様は、全問正解できただろうか。
Q1:ナンシーちゃんが乗った車は青色ですか?
→いいえ。
Q2:ナンシーちゃんはお昼ご飯にハンバーガーを食べましたか?
→はい。
Q3:ナンシーちゃんは道中、車内で歌を聴いていましたか?
→わかりません。
Q4:ナンシーちゃんは、お昼ご飯を食べながら、レモネードを飲みましたか?
→わかりません。
・・つまり、【アレ】の正体とは、「わからない」である。これが言えるか言えないかが、柔軟な発想を育むか否かに、かなり関わってくるようなのだ。
確かに、知ったかぶりよりも、わからないことにオープンな子の方が、成長は早いし、膨大な知識を吸収すると思う。
好奇心が強いか否かは、この「わからない」という答えが当人の中で肯定されているかどうかと、密接に結びついていると考えて差し支えないだろう。
だがこの考え方が肯定されるためには、さらにある大きな条件がある。それは、【周りの環境がそれを肯定していること】だ。
ところがどっこい、小学校に上がる頃には、どんな問題も〇と×がはっきりつけられる。結果、「わからない」とは最悪の答えの1つだと、いつの間にか刷り込まれる。
「わからない、だと?努力が足りないからじゃ!わからんとか言うてる暇あったらもっと勉強せんかい!!」という風に。あー怖い怖い。
・・・ぶっちゃけ親の手を離れた瞬間から、学校というシステムがいくらでもマルとバツをつけてくれるのだ。人生の序盤は、丸ごと肯定するくらいでいいんじゃなかろうか。
そんなことを人の親になったこともない僕は、この本を読みながらしげしげと考えている。
・・ところで、年齢を重ねても、「わからない(≒書いてある情報では判断がつかない)」ことの意味がわからない生徒は結構多い。
例えば英検2級や共通テストの長文は、「書いてある情報からはわからない、だからバツ」という考え方ができるかどうかで点数が如実にバラけてくる。
しかし、「一般常識では・・」とか、「俺の考えでは・・」という要らないスパイスを加えて、無理やり【はい・いいえ】に落とし込む生徒は、少なからず存在する。
それを矯正するのは、かなり難儀だ。
申し訳ないが、間に合わないまま本番に突っ込むこともしばしば。「わからない」の否定は、かなり尾を引く問題にもなりうるのだ。改めて、怖い話である。
その思い込みをどうぶっ壊す?
この状態の子供に対し、「もっと恐れず、わからないと言おうよ!!」といっても、何の解決にもならないとは先に伝えておく。
例えば僕はクモが大嫌いなのだが、「もっと恐れず、クモと向き合おうよ!!」と言われても、死んでも御免である。同じことだ。
そのために必要なのは、「わからないことは別に悪いことじゃない」という上書きもそうだが、もっと根本的なことがある。
それは、わからない場合の処し方だ。恐れる何かに立ち向かう際に要となるのは、武器と知識と、リスクの削減である。
ごつい手袋を装備して、絶対キバが届かない場所であると知っているならば、クモを指でつつくくらいは僕にもできるかもしれない。それと似ている。
では、「わからない」場面に遭遇したらどうすればいいのか。思うに、これは非常に広範囲なスキルに渡っていくので、この記事にすべてまとめるのは不可能だ。
だからヒントの列挙に留めておく。
例えば「わからない」問題にぶち当たったとして、調べればわかることなら調べればいい。なお、この"調べる"の定義の中には、質問も検索も含まれているとする。
あるいは疑問がちょっと独特過ぎて調べるのが難しければ、自分で実験やデータ収集を行い、証拠を集めていくのもいい。(観察日記を思い出そう)
もっと内向的な人には、問題を徹底して抽象化することや、ひたすら紙に書きだして輪郭をつかもうとする作業もまたオススメである。
―要するに、「わからない」ことはすべての始まりなのだ。入試とかなら「おわり」を意味するかもしれないが、そうでないなら、むしろ歓迎されるべき状態といえる。
そして、解決策も、種々雑多な「わからない」の数だけ、無数に存在している。すでに哲学者や数学者たちが悩み、考え抜いてくれているのだ。知恵を素直に拝借しよう。
こうして「わからない」ことを肯定し、即座に「じゃあ、どうしようかな」と自然と口角が上がるようになれば、かなり強い。
僕も関わっている生徒には、「わからない」を肯定する態度を前面に出して接し続けようと思う。
終わりに。
ところで途中で気づかれたかもしれないが、自分で問題を発見し、定義し、解こうとするこの一連の作業のことを、辞書的な意味で【思考】という。
ここんとこ教育でよく言われる【思考力】とは、与えられた難問をどんどん解く力のことでは、別に無いのだ。
自分で問題を発見し、科目をまたいで解決方法を考え、実際に使い、解けるまで試行錯誤する。このプロセスのことなのだ。
それがなかなか難しい子は、きっと「わからない」状況を過度に恐れているか、そもそも「わからない」問題に接したことが無いのだろうなと、僕は考えている。
もしすべての問題にシロクロつけたがるのなら。もし簡単な問題から先に行くのを嫌がるのなら。
「わからない」ことについてその子がどう思っているのか、一度胸の内を聞いてみてはいかがだろうか。では今日はこの辺で。