頭に糖分が回ってなさ過ぎて、日中夢見心地。そんなアブナイ中元です。
さて。今に始まった話ではないのだが、中学だろうが高校だろうが大学だろうが、受験が近づくと盛んになるのが【出題予想】である。
「今年は相似だ!」「大河ドラマから察するに、東京オリンピックとその関連知識が問われるぞ!」「英作文が出題される可能性が高い」・・等々。
僕も一応、過去の出題例などから予想がハッキリつくものについては、いっちょ前に予言めいたことを言ってみることもある。ただ、言うたびにヒヤヒヤものだ。
外れたら講師としての、引いては塾としての、大事な沽券に関わってしまうのではないか?そんなことを思うためだ。
しかし、大手塾・個人塾問わず、こぞって予想をブチ上げては、ネット上なり校舎掲示物なりで喧伝しているのが普通だ。当たっていれば、確かにすごいとは思うけれども。
これはどういうインセンティブで動いているのだろうか?外した時のリスクを考えると、あそこまでバシバシ予想を言えるなんて、ひたすらに感嘆ものなのだが・・・。
・・と思っていたが、今読んでいる洋書に、この辺の身もふたもないヒントが書かれていた。ぶっちゃけ、言葉を選ばなければ、それはとても、しょうもなかった。
今日はそんなことを書いてみます。
【予想】は言ったもん勝ちなんですよ。
先に言っちゃうと、この手の予想は【言ったもん勝ち】である。というか、勝ちなんてもんじゃない。言わなければ大損と言い切ってもいい。
実は【予想】など大抵の場合、超ローリスク・ハイリターンくらいの博打なのである。そしてそのメカニズムは、実にシンプルで、しょうもない。
そもそも人は当たった予想については注目し、取り立てるものだが、外れた予想は基本、矢面に立たされることもなく、皆に忘れ去られるのが常なのだ。
例えば1999年、僕が8歳のころ、『ノストラダムスの大予言』というのが大流行した。曰く、地球はこの年に滅亡するのだという。
ちょうどウルトラマンティガに熱中していたお年頃だったので、本気で怪獣か何かの類が表れて世界を滅ぼすのだと思えてならなかったのを記憶している。幼いなぁ。
―しかし、そのフィーバーは見事に外れ、こうして2021年を謳歌するに至っているのだが・・。ここで質問。
予想が外れたことに対し、ノストラダムスを大声で非難する人なり運動なり、心当たりはあるだろうか?少なくとも、僕には無い。
他にも、ジョン・タイターとかなんだとかが未来予測をしてはこうして平穏無事な時が流れているわけだが、やはりどうしても、外れた予測は記憶から消えるのが常らしい。
例えばとある博士がコロナで42万人死ぬという予測をぶち上げて日本からマスクと消毒用アルコールが消えたことがあったのだが、皆様覚えておられるだろうか?
ちなみにコロナウィルスの累計死者数は、2020年2月21日からの累計で、日本は17,999人らしい。(2021年10月13日17:58現在。ちなみに自殺者数は令和2年のみで21,081人とのこと)
・・・・しかし、当たった予測は何度もメディアに登場し、盛り上がり、そして歴史の一部となる。例として思い当たるのは、タコのパウルくんじゃなかろうか。
さて。こういうポイントを考えてくると、各塾は【予想・予測】をぼこぼこ打つべき理由が、思い切り浮き彫りになってくると言えないだろうか。
なにせ、当たれば称賛されるのだが、外しても忘れられるだけなのだ。言わない方が損している。単純に、ただそれだけの話なのである。
しかもさらに言えば、外しても忘れられるのであれば、手当たり次第に予想を打てば打つほど、リターンが無茶苦茶大きくなっていくと考えられる。
そのうち1つでも当たれば、「当たった!」ことが高く評価され、強力な広告ツールとなるためだ。
仮に他にも200個くらい外れの予想をしていても、言及しなければ闇に溶けるだけ。こんなボロい広報活動、そうそうありゃしまへんで。
なるほど、インセンティブという視点から見ると、一見不可解にも思える行動は、なんとも理に適っているなぁと思わされた。
これからは僕も、もっと大っぴらに、入試や定期テストについて予想をべらべらと語ることにしよう。当たればめっけ。外れても放置。それでいいのだから。
ということで皆様も、恐れずに予想や予測をバンバン打ってみてはどうでしょう。そんな謎めいた提案で今日は終わりといたしもす。