ケトジェニックな状態に体が慣れてきたのか、頭が普通に働くようになってきた覚醒中元です。
さて。突然だが、僕が「本来の意味を乖離してるよね」と思う言葉の1つに、【結果がすべて】というのがある。
「結果がすべてなのだから、俺の言うことを聞け!」という言い回しなんて、ぶっちゃけ矛盾してるとしか考えていない。
【結果がすべて】という言葉にはどうにも束縛とか不寛容といった意味合いが付きまとうのだが、本来は真逆の意味合いで解釈されるべきじゃないかと思うわけで。
つまり、【結果がすべて】とは、本来自由であり裁量が認められていることを示すメッセージじゃ無いかと、僕は思えてならないのだ。
今日は、そないなお話。
【結果がすべて】と同じ意味の言葉を考えてみる。
「結果」という言葉がそもそもアバウトなので、ここから考えてみよう。
例えば定量的に言えば「売上」「顧客数」「利益」であり、定性的に言えば「スタッフの結束」「いい空気づくり」という感じではないかな、と思う。
さて。【結果がすべて】なのであれば、正直言って、【結果が一番大事】というメッセージ以上のものが含まれているように、先述したが僕は感じている。
そのメッセージとは、【結果さえ出せば、あとは好きにしていいよ】というものである。もちろん語弊を生む余地は十分にあるが、僕はこれを好意的に解釈する。
というのも、僕は例えば、思ったら即行動とか、深く考える前に熱意で何とかするような仕事の仕方が、超絶苦手である。
しかし一方、情報を集めて分析し、それによって色んな手を考えるような仕事の仕方は、割と得意である。
要するに、どうすれば上手くいくのかなんて、人によって違うのだから、そのプロセスを思い切り制限しても仕方ないという話なのだ。
ある人にとっては即動がしっくりくるだけで、別の人には熟考がしっくりくる。ただそれだけなのだ。
となれば、【結果】さえ出せば、プロセスは問わない、という帰結が自然だと思えるわけで。(【結果】が出てないなら口出されても仕方ない、という意味でもあるけど)
・・・だが、現実はそうなっていない場合が大半だ。その生きづらさを、次は言葉にしてみよう。
”俺のやり方で”【結果をだせ!】という暴論。
今でこそまるで気にならなくなったが、実は僕の直属の上司はみな、【考えるより行動派】である。だから僕のやり方は、基本苦言を呈されまくってしまう。
「さっさと取り掛かれ!」「とっとと電話しろ!」という具合で、巧遅拙速こそ至上なのだから、皆そうしなければならないと心の底から信じているかのようである。
そんななので、例えば僕が僕のやり方で結果を出したとしても、「もう少し行動が早ければな~」といった具合に、惜しいな感を出されてクロージングされるのが常だ。
どうやらそんなコメントがさらに上にも通っているらしく、「君は行動が早くなればさらに上に行けるのに・・」という助言を役員の方から滔々とされたことさえ、ある。
これってつまりあれですやん。「行動が早くなければ結果として認めない」的なメタじゃない?だとしたらそう、マジの暴論である。口調ではなく、内容が、だけど。
ちなみに今だから言うけど、その手の助言は相槌しながら全部スルーしてます。すんません。いやだって、僕の性に”まるで”合わないんですから。
だが悲しいことに、まだまだ【過程】に対し不寛容な人は多く、僕みたいな沈思黙考型は、なかなか日の目を見ぬままに燻ることが多いのが実情だ。
しかも大抵、巧遅拙速型は声が大きい。そして結果が出ているように見える。だからより鮮烈に映える。それゆえ周りからもてはやされる。なんというサイクルだ。
何かの方法が唯一の正解なのであれば、この世で成功を収めている全員は猛牛のような思考回路をしているはずだが・・現実はそうじゃない。ということは、そういうことだ。
しかしそれを無視しているのか気づいてないのか、「俺のやり方は絶対だ!だからこれのやり方で結果を出せ!異論は認めない!」という論が普通にまかり通ってしまう。
とはいえ例えば大学受験の問題ともなれば、「解答にさえたどり着けば、プロセスはどうでもいいよ」という類の出題がかなり増えてくる。(それを詳述するスキルは要るけど)
法に抵触するとか、信頼面の何かを踏みにじるとかじゃない限り、プロセスにも寛容な方が生きやすそうだよね、きっと。
必ず【解答】と【解説】がある問題を最近指導しながら、そんなことを思う秋の夜長でござんした。
では今日はこの辺で。