仕事量のアンバランスさを考えると気が滅入るので、そこから目をそらすスキルがずっとずっと向上しております。中元です。
さて。講師なら何度も頭を抱たことがあると思うのだが、【発問】の理想形とは、いったい何なのだろうか。
ただ誰か生徒一人を名指しして、答えを言わせ、あってる間違ってるを問う。これって問いを発しているというより、クイズ大会に近いよねと、ちょっと考えちゃう。
ということで今日はこのテーマで、思うことを書いてみよう。
そもそも【発問】の狙いってなんだ?
そもそも、発問する理由や狙いとは何なのだろうか。これは個人個人の置かれている状況で、ある程度は変わってくるのではと思う。
例えば、解答権を渡すことで授業にメリハリを生む。注意散漫な生徒に再度集中を生ませる。寝ている生徒を起こす。この辺が最たる理由になるのではと思う。
ただ、【発問】を漢字ごとに分解すると、「問いを発する」のはずである。まぁ質問しているから語源には合っているのだが、腑に落ちない感じがするのはなぜだろうか。
―こんなことを考えていると、ふと脳内に、「伝説のスローリーディング」授業を行った先生の話が湧き出てきた。
仔細を詳しく読んだわけではないが、「小説を3年間かけて読む」という奇抜さの裏にこそ、僕は本来の【発問】の在り方を直感的に感じているわけで。
昔見たそれに関するドキュメンタリーをぼんやり思い出してみたが、「あぁ、【仮説】を発問して、【検証】を授業や宿題とかにしているなぁ」という印象を持った。
例えば、駄菓子か何かを食べた時の効果音を取り上げて、本当にそれが適切か、実際に自分で食べてみて検証しよう、といった風に。スゲェなと思った。
これが本質なのだとすれば、答えを書かせに前へ出させることも、言わせることも、的のふちを射抜いている程度なのだと思えてならない。真ん中とは何なのか。
今少し考えてみたが、例えば例文だけを並べて、その英文法の法則などを考察させるとか、当てる内容を予告して、数十分自習させるとか、そういうのが近いかなと。
まだ【問い】を探せない生徒たちに【問いを与え】、【答え】にたどり着く方法を考えさせること。これが【発問】の理想形じゃねーかなと、僕はぼやっと考えている。
【わからない】が言える文化を。
となれば次に立ちはだかるのは、クラスそのものの文化や風土、雰囲気といった、目に見えない部分である。
【Think Like a Freak】でも触れられていたが、問いの始まりはわからない・知らないと認めることなのだ。僕も強くそう思う。というか、大体はそうだとさえ思う。
ただし、学校で習う問題やテストは、それとは逆のメッセージを伝えてしまうことがほとんどだとも思う。わからなければ点にならず、赤ペンで×がつけられるからだ。
ぶっちゃけ成績をつけるため、学校というシステムを機能させるため、テストがそうあるのは仕方ないと思う。(入試だってそうだ)
とはいえ、だからと言って、授業もすべて白黒はっきりつけてバツかマルかを徹底すると【わからない・知らない】の一切を許容しない文化のクラスができてしまう。
【わからない・知らない】という答えを許すこと。これの第一歩を作れるのは、多分講師なり教師なり、である。ただこの考えについて、理解者は少ないと思う。
「わからないことがあってはならない」という価値観からすれば、それは仕事放棄と同じだからだ。とはいえ、わからないことを認めないと、柔軟な思考は始まらない。
ここからは僕も色々と検証する必要があるのだが、ただ現時点で、【わからない】のなら、どうすればいいかを考えるという癖をつけさせたいなと、それだけは強く思う。
例えば、【わからない】という解答を許す。そのうえで、「じゃあ、足りない情報は何だと思う?」とか、何かしらの資料を渡す、とか、アプローチを変える。
入念な授業準備とシミュレーションが要りそうだが、新しいスパイスとして、試してみたいアイデアだなとは実感している。
終わりに。
誰かを指名する。答えを言ってもらう。あってれば褒めて、間違っていれば訂正する。これは基本テクニックであり、これを習得していない教師は失格とさえ言われる。
これもこれで面白いのだが、これに終始するのも避けたいよなと、あまのじゃくな僕は考えてしまう。
その一助って結構難しいし、僕自身ももう少し言語化しておかないと、微妙なコンテンツを提供してハイ終わりだと思うので、これもまた宿題だなと思う。
では今日はこの辺で。