激しめの筋トレを行った結果、ハムストリングスが痛くて仕方ない中元です。老い?いいえ、運動不足です。
さて。死ぬほどどうでもいい私事の報告なのだが、今まで食指が動かなかった小説に、今更ドはまりしている。
理由はなんてことなくて、突然目が覚めたように、【膨大なインプットに裏打ちされたアウトプットにもっと触れたい】と強く思うようになったためだ。
それはつまり【芸術作品】だと思い、まずは自分にとって手に取りやすい小説を選んだというわけである。(いずれ絵画とかも見たいと考えてる)
ぶっちゃけ中二病をこじらせているので、現代を舞台にした小説はほぼ読まないのだが・・・。
例えば、天地明察は読み返すや否や、1日60ページ以上のペースでゴリゴリ読んでしまった。特に下巻は、どこで手を止めていいかわからないくらい面白い!!
その後は家にあった命売りますを改めて読み直した。三島由紀夫が考える命とは何なのか、帯にあるテーマを考えたが、そのうち考えるのをやめて没頭してしまった。
そして高校の時にギブアップした人間失格は、1日で全部読んだ。途中途中、「ぐはっ、わかる・・!」と刺さる文言があり、なんかこう、もっと早く読みたかった。
ちなみに現在は、前後の話をきちんと知りたいと思って、こころを読んでいるところである。今のところ陰鬱な展開にはなってないが、伏線はすでにある。
―という風に小説にハマって1週間くらい経ったのだが、その短い期間で、僕の中である変化が起きた。具体的に言えば、思考がちょっと変わってきた。
もっと言うと、物事を俯瞰で見るのが我ながら上手になってきたのだ。今日はその昂奮を書いてみたいと思う。
すべてを描写したくなる。
特に三島由紀夫の命売りますを読んでいて感じたのだが、情景描写が巧みな人って本当に偉大だと思う。なんてったって、その感じがうつるからだ。
晴れた空を見ていても、周りの木々とか建物とかに目を向けて、「まるで・・」「さながら・・」といった書き出しで、胸の内で心にしたくなるほどである。
この間も道路の上を枯れ草が這っているのを見て、一寸秋の到来を感じたとかエセ風情なことを考えたものだ。優れた作品を読むと、それに僕は染まるらしい。
そしてその言語化癖は、自分自身にも向いている。
少しゾッとするトラブル(でもない)が今日あったのだが、いの一番に意識が向いたのは、鼓動だの表情だの、つまり描写に必要な情報だったので気づいた。
こうやってあらゆる状況を、まるで誰に見せるでもない小説を書くかの如く脳内で言葉にしていくことが、ここ数日でマジで急にうまくなったと感じている。
もちろん錯覚かもしれないという可能性はあるのだが、ポジティブに考えることにしよう。
そしてこれが意味することこそが、最初に書いた話に繋がる。【物事を俯瞰で見るのが上手くなった】ということなのだ。
ネガティブの底に囚われるとはどういうことか。僕はそれについて、状況をなるべく悪い方に解釈し、その設定に自分自身を投影し続けることだと考えている。
いわば、自分が脳内で膨らませた不安の中に生きるという感じである。咳払いすらも自分への攻撃と捉える。そういうことだ。
では、どうすればそういう状況から脱することができるのか?それは、そういったネガティブな世界から自分を切り離すことに尽きる。
その手段の1つこそが、そのネガティブを言語化することなのだ。
というかそもそも、文豪と呼ばれる人は精神不安を抱えていた人が非常に多い気がしている。書かないと救われないから、書いていたのではないかとさえ思う。
そうやって苦闘した結果があの大作なのであれば、それに触れることで胸の内の不安を言葉にすることが上手になるのは至極当然だと言える。
胸の内のもやもやに苦しむことや悩むことが多い方は、それを作品に昇華したものを手に取ってみてはどうだろうか。もちろんそれをモチーフにした映画やドラマでもいい。
とりあえず僕に関しては、エンタメとして内容の面白さを味わう以上の収穫があって、柄にもなく小躍りしたいほどの気分である。
てなわけで、そろそろ「こころ」の続きが読みたいので、今日はこの辺で。