マインドフルネスの練習を最近重ねています。なんかこう、人生が楽になってきました。中元です。
はい。今日のテーマは、講師のメンタルに関するハナシである。時折誤読を招きそうな部分もあるが、それも一興ということでオナシャス。
さて。何度も書いてきたが、僕は私塾の目指すものは1つしかないと考えている。それは、【成績向上】。以上である。
―だが白状すると、僕は期待の度合いというか、この子はこのラインまで届かせたいという基準が、一人ひとり結構異なっている。
理由はそうしないと、心が疲れて仕方ないからだ。今日はそういうお話である。
過度な期待を無意識にするから疲れるという。
成績向上と一口に行っても、当然ながら意図することは十人十色で全然違う。国公立大学に行きたい生徒もいれば、「2」を「3」にしたい生徒もいるのだ。
そういった要望の違いや勉強に対する姿勢・力量の差をガン無視して、勝手に高いハードルを設定すると、心が疲れると僕は考えている。
例えば勉強が超嫌い、マジでできない、精神年齢があまりにも未熟といった生徒は、成績を上げる前に、できるようにならなければならないことが山積している。
そのようなクラスターにも、「全員国公立進学!!」みたいな目標を適用するのは、ぶっちゃけ青臭すぎると正直考えてしまう。
その子らは点数が上がることよりもまず、椅子に座ってられる時間が数分延びたことを褒めるべきだからだ。提出物を仕上げられたことを認めるべきだからだ。
これは他の例で考えても同じだ。野球を始めたばかりの初心者は、ルールや基本動作を1つ覚えるだけで、それは成長である。
そういった段階で、難解なチームプレイを要求しても仕方がない。逆に、習熟してきた選手に、キャッチボールができたからと褒めるのも違う。
こうやって考えれば至極当然な話なのだが、こと勉強となると、そしてそれを得意としてきた講師となると、全生徒に同じ期待をかけるのは不思議だなと感じるわけで。
結果人間はネガティブな方に目が向きやすいのだから、たとえその子が少しずつ人間的に成長していても、数値が奮わなければ自責に走る人は多い。
だから精神が疲弊して、結果折れて終わる、と。優しい人ほど潰れるという話を昔書いたが、やっぱりどこかで切り分けて考える思考はマストになってくるようだ。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
ということで、自分が全生徒に対し、やや乖離したような目標を無意識に押し付けていないかどうか、一度顧みてはいかがだろうか。あなたの心のためにも、だ。
ちなみに僕は一時期、そういうところがあった。目標に届かなければ自分を責めて、届かせようという意思のない生徒には苛立ちを覚えた。
だが「それってきっと、間違ってるよね」とふと思いつき、それをベースにあれこれ考えてみると、確かに不健全だと悟るに至った。
模試で8割取る生徒は8割5分を目指せばいいし、椅子に10分座れない子は15分座ることを目指せばいい。みんな違ってみんないいのだ。
成長さえしていればいい。最小限の願望。それが一番、お互いにとって健全なのじゃないかなと思う。
そんなボヤキをもって、今日はこの辺で。