ダイエットを止めてからの方が飯をちゃんと食ってない気がします。またスイッチ入れようかな・・。中元です。
さて。今は授業と授業の間の隙間時間に記事を書いている。しかしながら、何にもネタが閃かず、20分くらいずっと記事作成画面を眺めるだけになってしまった。
ただ、心にはよしなしごとが次々に浮かんできていた。何かあるはずだろ?という自分への疑念であったり、何も生産していない時間への焦燥だったり。
―ってのを考えているときに、ふと悟った。僕はあまりにも、「暇」な時間に厳しすぎやしないか、と。
思えば大学生の頃から、暇な時間は嫌いだった。隙間時間は読書なり遊びなりで埋めて、身体を休ませることは二の次だったほどに、だ。
それと同じノリまで生きてきた今、なんだろう、はっきりと疲れているのを感じている。てか最近、色々あったもんなぁ。
そういうときはむしろ、隙間時間を完全なる休息と解釈し、きちんと休んだ方がいいのだろうと思うに至った。
つまり僕は、もっと「ぼーっとする時間」を慈しんだ方がいいという話だ。生徒たちには休息を推奨しながら、自分がそれをサボるのは、なんか違うぞ、と。
今日はそんな話。
休憩は権利かつ義務。
今改めて調べてみたが、権利の対義語は義務らしい。ちなみに、義務を果たさない限り権利は付与されないという意味ではないっぽいのでご注意をば。
さて。となれば、【権利かつ義務】なんて無茶苦茶な考え方になってしまいそうなのだが、まぁもう少し、自己正当化のためにも説明いたします。
まず、労働時間において、休憩を取るのは労働者の権利である。(一応、取らねばダメというより、取っても取らなくてもいい、という話になっちゃってるけども)
―しかし、僕が休憩も取らずに無駄に疲弊すると、とある方々の権利を侵害することに実はなり得る。それは、生徒、ひいてはご家庭だ。
ヘロヘロな状態で言い間違いを連発する授業は論外。ある程度担保された授業を受ける【権利】が顧客にはあり、そして僕にはそれを提供する【義務】がある。
こういうことを考えれば考えるほど、むしろ毎日毎日根詰めて働き続けるなんて、別にベンチャーでもない一企業においては、自己満足じゃないかと反省した。
―ではなぜ僕は、ずっと何かで時間を埋めてしまうのだろうか。少し考えると気づいたが、暇な時間が発生した際に取れる行動の選択肢が、少なすぎるのだ。
今のところ、ネットの記事を読むとか、校舎の掃除をするかしかない。2つしかないのなら、選択もくそもないではないか。
だから、もっと休憩時間にちゃんと休憩になることをしたいよなと、今は反省するに至っている。高尚な時間の使い方ができる人も立派だが、僕には無理というだけである。
ということで、無理矢理これ以上記事を書くのもストップだ。僕はこれから、しっかり頭を休めることにする。許されるならちょっと寝たいくらいである。(ダメかな)
自愛とは権利であり義務なのだ。なんかふとした気づきで、良いことを学べた気がするぜ。
では今日はこの辺で。