最近、飯を食うのがなんかめんどくさい中元です。生き物としてこれはどうなのだろうか・・・。
はい。ここ2週間以上燃えていたクレーム案件だったが、一応鎮火はしたらしい。その最後のやり取りにおいて、どうやら相手先は僕を徹底的に人格否定していたという。
つまるところ、徹底した僕のアンチになったということ。いろいろ弱かった10代後半~20代前半で一番恐れていた存在が、ついに誕生したことになる。
―そんな風に恐れに恐れていた対象が現出した今、僕は今、素直に何を感じているのか。せっかくの貴重な経験値なので、【学び】としてここに書いてみようと思う。
攻撃されるとは、つまり・・。
強がりでもなんでもなく言っちゃいます。無だ。マジの無。「俺のこと、そこまで激しく憎んでるの?へー」という感想で終わりである。
むしろ、内容はさておき、どんな罵詈雑言を電話口で並べたのかには興味がある。なんか聞いたところによれば「裁判・・」というフレーズを出したとは聞いた。
これにはちょっと申し訳ないが、「お!これって、超テンプレな脅迫クレームじゃん!」と少し心が躍ってしまった。それくらいどうにも、他人事なのだ。
まともに受け止めても、僕自身の利益になることは無い。心の底からそう確信しているため、根掘り葉掘りお話を聞きたいという欲も、ない。
ここまで露骨に、激しく、そして理不尽なケースで嫌われたのは、自覚している限り人生初だが・・。なるほど、結構どうでもいいんだなぁ、と。
というか以前別ブログで記事にもしたが、超嫌われた結果、なぜか自動的に強い味方が増える結果になったので、むしろ僕はトクをしている図になっている。
hitomishiriteki-jinseikun.hatenablog.com
―ところで、こうやって激しい怒りをぶつけられて改めて感じたのだが、こういうのって動物の威嚇と同じだなと思う。
失礼ながら、怒り狂っていて、怒鳴り散らし、話も通じないとなれば、一個人を相手にしているというより、怒っている動物を相手にしていると言った方が近いだろう。
この感覚はストレスフリーに人生を歩んでいる印象の方がよく提唱されており、例えばひろゆき氏も以下のように評しているわけで。
日本の職場は、マイナス感情を平気であらわにする人が多いですよね。
大声で怒鳴る上司もいれば、逆に、叱られたり失敗したことについて、ずっと落ちこんでため息ばかりもらしている部下もいる。
自分が当事者じゃなくても、そういう人たちについ引きずられて自分のペースを乱してしまったり、彼らにどう接していいかわからなくて疲れてしまったり…。
でも、そんなふうに、すぐに怒鳴る人や簡単に落ちこんでしまう人は幼稚園児くらいの子どもと一緒。
つまるところ、感情と理屈を切り分けられない未熟な人間なんですよね。
うむ、容赦ない。もちろんこの一件については、怒らせた僕も悪いところはあるのだろうが・・・。
結果人格否定の言葉をボコスカ投げられるってのは、どう考えても過剰じゃね、と。仮に裁判を起こされても、勝つのって僕じゃねーかなとさえ思う。(棄却されるだろうけど)
つまりまとめれば、超怒られているときは、理性が飛んだ何かを相手にしているということである。
だからこそ、まともに受け止めても何も良いことないしどうでもいいなと、強く学ぶことができたわけで。
犬が全力で吠えているとき、「なんで怒っているんだろう・・」「どうしたらいいんだろう・・」と病むバカなどいないのと同じである。
平穏と言ったら大げさだし、実際序盤はちゃんと落ち込んだし悩んだのだが、今となっては心の底から、どうでもいい。
堀江貴文氏も【嫌われるほど自由になれる】と仰っていたが、その意味がよぅくわかった事件でもあった。
数値で考えてもあほくさい。
ちなみに、この事件が初といったが、そこに至るまで僕は6年ちょいのキャリアと、数百のご家庭とのつながり、そして数千ものコンタクトが必要であった。
こんな天文学的に低い確率の事件を恐れるとか・・・バカバカしいにもほどがある。雷に打たれて死ぬのを恐れて、雨の日はひきこもるのと同じくらいアホくさい。
杞憂、杞憂。おまけに経験値も得た今となっては、2度目・3度目とますますどうでもよくなっていく気がしている。
どんどん僕は人の目から自由になっているということかな。だとしたら成長に他ならないじゃないすか。やったー。
それくらい図太くていいんだとよくわかった2週間ちょいであった。
では今日はこの辺で。