時間割をみると、僕の隙間が超効率的に埋められていました。怒髪天。中元です。
はい。あっちゅう間に2021年が終わりそうで、2022年のことに思いを馳せたくなる時も増えてきた。
要するに、2021年は何に苦労したかをしっかりつかんで、2022年はそれを潰せるように作戦を用意しておくということだ。年末年始は、どうせ暇だしね。
でだ。2021年、一番強く反省することは何か。それは、自分が誰かの分身に徹し続けてしまったということだ。
僕は人の時間を生む側であり、そしてそうすることが正解だと思っていたのだが・・。結果、色々と中途半端になってしまったのを痛感している。
会社からは率いるものとしての成果も求められつつ、一方、講師としてきちんと指導に携わることも求められつつ。
相反する仕事2つが足を引っ張りあっているようなものなのだ。ただ数値を見ると、むしろそんな中で、僕は健闘したと考えた方が正解なのかもしれない。
だがそれぞれに、もっとうまいことできたよなという悔しさが残る。
せっかくなので、そのジレンマを、ここに記事として葬っておく所存である。
隙間時間の限界を知った1年。
今年はマネジメント側としても、また講師としても、できる限り力を入れることを継続した。読む本のテイストも変わり、学習法の知識も爆増した手ごたえがある。
しかしその反動で、肉体的・精神的負担も爆増した。この辺は二律背反、トレードオフと考えて、仕方ないという風に独り言ちるようにしたけれど。
―そんなことをすると、必然的に時間が無くなっていく。つまり、考え事をする時間がなくなっていくのだ。これは正解と言える状態だろうか?
少なくとも、僕の場合は違った。全てをポモドーロテクニックで回そうとしたが、それではケリがつかない場面も多々あり、精神がすごくすり減った記憶がある。
さて。いろいろ自動化している授業はそれで問題なく回ったのだが、マネジメントの方はそうもいかなかった。綻びは確かに出てしまい、迷惑をかけたこともある。
つまり、どちらも全力でやろうとした結果、講師業はさておき、マネジメントの方は完全に中途半端になってしまったのだ。
・・・それに気づいてから、ここ数日は意識して「まとまった時間」を設けるようにしている。これについては、以前記事にした。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
結果、明らかに仕事も、なんなら人生も、その質が高まったのを確かに感じているというわけだ!これは嬉しい!
―と同時に、来年の課題がもうわかった。僕は他人の時間ばかりでなく、自分の時間を作ることにも注力する必要があるということだ。
だから来年は、僕にしかできない科目というのを極力減らし、できる作業はなるべく自動化し、その講師の育成の研修や、勉強などに投資しようと考えている。
―こういう結論に、なぜ僕は至ったのか。むしろ、マネジメントが半端になるなら、講師業に完全集中するという選択だってあるじゃないか。
だが、僕はそうしない。そうしたくない。その理由は、我ながら少し黒い。次は、まだ言語化していない、胸の内に抱えているものを吐き出そうと思う。
食い潰される時間。
勘違いとは言わせたくないのだが、僕が生んだ時間のほとんどは、最適に使われているとは考えていない。
嫌な仕事を引き受けて、空き時間を授業で埋めて、でも雑用もぽいぽい処理して、時に面倒な電話があれば矢面に立って。
そうやって僕が生み出した時間で、僕が使った場合を上回る価値を生んでもらわなければ困るわけで。でなければ、僕がそれを差し出した意味がない。
だがこの1年、シビアにそれを観察してきたが、ぶっちゃけ無駄遣いされたという感覚をどうしても覚えてしまったわけで。その時間、僕が使いたかった。
飯を食うのはいい。それを欠かすと頭が回らなくなるのだから。少々動画を観るのもいい。それもまた、労働者の権利として与えられた休憩時間なのだから。
だが、何時間もそれらに回すことを、僕は許容しきれない。ある意味もう、我慢の限界に近付きつつある。
しかし残念ながら、まだどうしても、僕が時間を使うより財が実は生まれているという可能性がぬぐえない。それを確かめるには、比較実験するしかないだろう。
だから来年、僕は依頼と工夫で時間を積極的に取れるようにして、そのうえでそれがどう数値に影響するか、つぶさにデータを取る所存である。
表立って昇進してもらえなくても結構だ。意識の中で、僕は上の方々と張り合う。2022年はそのつもりで使っていく。
決意表明なのか愚痴なのかよくわからなくなったが、肚の中を書けてスッキリだ。この気持ち、しっかと覚えておくことにしよう。
では今日はこの辺で。