珍しく昼にお腹が空いたのでドカ食いしたら、猛烈な眠気と胸やけに襲われてしんどい中元です。
はい。今日なんとなく、学校で資格を持つ人から授業を教わるというシステムがすでにある手前、塾の授業は何を重視すればいいのだろうかと、ぼんやり考えていた。
例えば個別授業は、わからないところに特化して噛み砕くことが大事だったり、逆に学校の進度からどんどん先に行く方を重視してほしかったりというところに落ち着く。
では、集団授業はどうだろうか?足並みを揃えて、全体に同じ情報を伝える手前、工夫ゼロでは学校のトレースになり、付加価値が生まれるとは言い難い状況になる。
しかし、学校から乖離したことを伝えたら、それは独りよがりであり、これは不満やクレームを生むだけだよなともいえるわけで。
落としどころはどの辺だろうかと考えた結果、今年の頭に閃いたストーリー型授業に加え、ある仮説にたどり着いた。
今日はそれについてと、関連したボヤきを、以下に書いてみようと思う。
知識は濃さではなく取っ手の多さがカギ。
ひろゆき氏も配信で言っていたが、「そのものを覚えるだけじゃなく、その思い出し方を決めておくことも大事」という考え方がある。これにははっきり、同意する。
以下、ちょっと実例で説明しよう。実は、僕は【enough】の位置が、たまにわからなくなる。
説明したい単語の前だったか、後ろだったか、そもそもどういう言葉を説明するときに前で、どういうときに後ろだっけ?という風に、これがよく、わからなくなる。
しかし、その思い出し方はきちんと覚えているため、そんなに困っていなかったりするのだ。
その方法とは、【enough money(十分な金)】というフレーズを思い出すこと。以上。
すると、「moneyは名詞だから、名詞を説明するときは前に置けばいい、と。つまり、名詞以外は後ろってことか、理解理解。」となって、一件落着なのだ。
・・・そして不思議なことにまた忘れてしまうのだが、こうやってそのものが直接思い出せないとき、そのヒントをたくさん覚えておくことは、はっきりと役に立つと思う。
そのトリガーを自分で作れる生徒は言うことなしだが、そういう能力はある程度までこちらが開発してあげる必要がある類のものだとも感じているわけで。
「忘れても思い出せる方法を覚えておけばいい」という教えが、実体験を伴って理解できる人って、手前味噌だが結構少ない印象である。
となれば、そもそも自然にその能力が開発されることは、どちらかと言えば稀有な現象なのだろう。
ならば、その観点を伝えられるような指導法こそが、私塾が目指すべき授業の形じゃなかろうかと、今は勝手に仮説立てが完了したところである。
具体例をもう一つ紹介しよう。例えば、室町幕府三代将軍・足利義満という人がいる。
“新しい足利義満像” 示す新たな肖像画 発見 | NHKニュース | ニュートピ! - Twitterで話題のニュースをお届け!
この人の名前を覚えるとき、さてどうするか。「金閣を建立した人、室町幕府の将軍になった人、南北朝を統一した人」という風に、色々あることだろう。
だが、もっとアホな考え方もある。三代将軍なんだから、よしみっつ(3)でもイケるのだ!
ついでに、江戸幕府の三代将軍は、徳川いえみっつ(3)である。代数を取っ手にしておけば、こういう取り出し方もできるというわけで。
こういう教え方を学校でやったらちょっと問題視されるかもしれないが、私塾なら受験に向けた語呂合わせみたいな理屈で、多分通る。
知識とは脳内でネットワーク的に繋がっているものであり、一つのことを思い出すと、同時に関連事項がポコポコと頭の中で連想されていくものなのだ。
畳のにおいを嗅ぐと祖父母の家を思い出し、祖母の笑い声が頭の中に流れ、そういえば小学校の頃はよくスーファミしたなと次々考えるのと同じである。
その取っ手をいくつ生徒の脳内に設置してあげられるか。ストーリー型授業と合わせて、自分の課題に加えることにしよう。
アップデートに慣れておくことの利点。
ここからは関係するのかしないのか微妙なことを書く。学校教育を極めると、実はある経験に非常に乏しくなるのだが、それは何かわかるだろうか。
答えは、自分の中の常識が覆る経験だ。例えば数学の公式は、厳密に証明されたそれが並んでいるため、覆る余地はない。
また、理科の実験も、実はかなり高い再現性のものが並んでいるのと、その手順を厳格に決められているのとで、例外の結果になることはまず無い。
歴史はたまに新資料の発見で色々覆ることはあるが、あってそれぐらいである。というより、アップデートされるのが前提の科目が入試で問われたら、色々マズい。
そういうのもあって、自分が一度覚えたことに反例が見つかり、それが覆るという経験が、優等生ほど乏しくなるような感覚がちょっとある。
それの何がまずいのか?結果、頭が硬直化して、変化に適応できなくなるのではと思えてならないのだ。
テレビが絶対なのだから、ネットに軸足を置くやつがバカ。すぐに動けばなんでも上手くいくんだから、考えるやつはアホ。
―こういう思い込みが凝り固まって、脳内でコンクリートみたいになってしまった人の末路は、本当に怖い。そんな話、何度読んだかわからない。
そもそもなぜ勉強をするのかというと、社会の変化に合わせて脳内の知識をアップデートするためだと、今のところ僕は納得している。
一昔前の常識が通用しなくなることなど前提として、新しいトレンドを押さえたり、逆に傾向をとらえて未来を予測したり。
その過程では、間違えたり修正したりすることが当然となる。しかし、テストで良い点を取り続けた生徒ほど、この経験を嫌がったり怖がったりする傾向が強い。
学校で教わる知識にだって、例外はあるし、別の目線はあるし、覆る可能性だってある。というかそもそも、世の中がそうなっている。
そんなメッセージ性も、授業に入れたいなとぼんやり考えているが、やり過ぎたら本来の仕事内容を逸脱しちゃうよなと、今はちょっとジレンマを感じている。
終わりに。
最近どうにも、若者はダメ感が蔓延している気がする。特に繁華街で遊んだり、フェスに行ったりする彼ら彼女らを指して、愚痴が止まらないあの現象。
その本当のところはどうなのだろうか。多分、それは虚像であり、実像はまたちょっと違うのだろうと思う。
例えばこないだ担当している生徒から、「僕らはいったいなんであんなにオミクロンを恐れないといけないんでしょうか」とボヤかれたことがある。
聞けばその生徒は、自発的に感染者数に留まらず、症状の内訳、各国の状況など、広いデータを参照し、そのボヤきに行きついていたのだ。
そしてそういった情報は、学校内で結構シェアされているようで、恣意的な情報は敏感に感じとって、鵜呑みにせずに疑っているとのことだった。
デジタルネイティブ世代の強みはここにあると思った。本当かどうかを”疑う”という発想を、無意識にやるアレ。
もちろん例外など山ほどあるのだが、とりあえずこういった発想ができるとだいぶトクだし、できないとだいぶ損というのは、つくづく思わされた。
そのためには僕自身が、僕の知識にどこか懐疑的になって、アップデートを怠らずに続ける必要がある。教える側は学び続けないとならない。改めて腹が括れた。
内省的な時間は、たまに生産的になりますな。何かヒントになることが書けていれば幸いである。
では今日はこの辺で。