堀江貴文氏の定義で言えば、僕は【多忙】でこそあれ、【多動】ではないそうです。そんな中元です。
はい。今日はちょっとしたメンタルの闇的な記事をば。最近、誰もが避けているような社会の闇を暴く系の本がマイブームで、毎日帰宅後にザッピングしている。
それらを読みふけるたびに思うのだが、やはり今は「何を売るか」ではなく、「誰が売るか」という個人の価値に重きが置かれた時代である。
例えば、授業そのものの質で言えば、”カリスマ”と称される方々の動画授業で事足りてしまうのと同じであり、その土俵で戦うには、あまりにもライバルが強すぎる。
ただ、「この人がいる塾に通いたい」というファンをつくることができれば、最終的な利益や支持者で競うことができるという話でもあるので、なるほど夢がある。
―となれば、人からの総スカンを食らうような言動や、それをやっている人を校舎に集めてしまうと、それだけで顧客が離れていってしまうというリスクもあるわけで。
だからこそ僕はタイトル通りのことを考えている。「手柄を認められない講師に、仕事を振りたくはない。」
今日はそれをテーマに書いてみちゃいましょう。
誰も幸せにならなかったやり取り。
少し悲しい思い出を振り返りながら、タイトルに書いたことを考えてみよう。去年の夏ごろ、ある応募があり、非常勤が一人採用されてきた。
早速ということで、夏季講習から仕事を振るようにしていたのだが・・・。どうにもこうにも、その評判が悪いのだ。
確かに、どちらかと言えば少し暗い系のタイプではあるのだが、過去に似た性格の講師で人気を取っている者もいたので、不思議でならなかった。
「今後は無しでお願いします」といった苦情が来ることもあったし、何ならここで語るにはキツい、ガチなそれが来たこともある。
全てに対し僕がペコペコし、毎度毎度鎮火すると同時に、彼が不憫でならなかった。なぜこう、どうにもこうにもハマらないのか?
最終的には累計8人くらいに短期なりなんなりの授業を依頼したのだが、なんとそのうち3家庭から不評を受け取る始末であった。
僕が直接レクチャーを入れたり、全体的な研修を何度か踏んだりしても、ダメだった。本人がやる気なだけに、どうにも口惜しさがこみあげてくる。
・・一体、彼は何をしたのか?研修を担当した人に聞いたら、教えている内容的には全然問題ないとのことだった。
だから勇気を振り絞り、なんならちょっぴり屈辱に震えながら、「いや!」といった生徒当人にワケを聞いてみた。すると、謎があっさりと解けることになったのだった。
「合っててもなんも言われないのに、間違ってると強めに指摘される」
・・・。
その場で頭を下げた。人格の奥底の部分にアンテナを張れなかったのは、完全にこちらの落ち度である。自尊心を傷つけたこと、それを詫びた。
さて。このやり取りの中で、幸せになった人間は誰もいない。生徒も不幸だし、僕も不幸だし、彼もまた、不幸なのだ。
だからこないだ、「依頼するコマは無いと思う」という風に、やんわりと向いてないことを彼に伝えた折である。「わかりました」という返事だったが、さていかに。
―こんな風に、地の性格の部分で、どうしても言い回しに好ましくないところが出てしまう人間は、たまにいる。(誰かに対し、心当たりの1つはあることだろう)
自覚して矯正できればそれに越したことはないが、そもそも自覚させる時点でハードルが高い話である。(そこまでをアルバイトに求めるべきかという問題もあるけど)
・・・こんな具合で、僕はどうにも、手柄を無意識に否定するタイプの人には、あまり授業を依頼したくないと考えている。
しかし厄介なことに、こういうタイプの人は、ステレオタイプな見方をすると魅力的に映ってしまうこともあるため、判別がなかなかに難しい。
すごく堂々と声高に、自信たっぷりにさえ言うことができれば、「俺のおかげで出せた手柄だな!」というのも、「お前の努力不足だ!」というのも、正しく聞こえる。
ただしセリフの内容そのものは、どのビジネス書にも「最悪なリーダー」として称される人のそれである。現実と理想の乖離たるや、はなはだしいものがある。
中間管理職ゆえに、悩むことはしばしばだ。権限が中途半端ゆえに、抜本的な改革を許されないこともまぁ多い。
誤魔化し誤魔化し、あと1年くらい爆発せずにしのげるかな?では今日はこの辺で。