珍しく早起きできたので色々やったら、結果調子が乱れたドラキュラ野郎中元です。
はい。最近、少し自分の怠惰に気付く一幕があった。基本僕は授業の頭に、生徒になんかしらの小話をするのだが、ついこないだ、それが全く出てこなかったのだ。
その際は仕方なく、「時間が惜しいから早速授業に入ろうぜ!」という形でごまかしたのだが、語るネタが枯渇したことなど本当に久しぶりなので、マジで焦った。
その原因は何だろうかと後々反省したところ、「あっ」と気付くことがあった。今日はその理由から、タイトル回収までを記事にする。
【知識】の勉強をサボったツケ。
それは、最近インプットを思い切りサボってしまったという心当たりだ。
正確には勉強はしていたのだが、どちらかと言えば実践的なそればかりやってしまっていたという具合である。
例えば、リーダーシップ論であったり、自己愛と昇進の関係だったり、経営者の心構えだったり、かと思えばホステスの実践心理術だったり。
これは自己投資の一環なのだからどうでもいいっちゃいいのだが、これらはどう考えても、生徒に語る類の知識ではない。
彼ら彼女らは、例えば学校では習わない世界の存在や、知っている事柄のさらに深い部分の知識など、その辺りを欲している。
だから【宇宙創成】の話とか、【サピエンス全史】の話をすると、結構真剣に聞いてくれるというわけで。
しかし、こういった部分は実践的かと言われればダウトだ。具体的には、宇宙の成り立ちを知ったからと言って、直接仕事に活かすのは無理ということである。
とはいえ、この部分の知識は常日頃から仕入れないと、どんどんこちらの説明がマンネリ化する。一見無駄に思えても、必要な投資だったということらしい。
身に染みて学ばされた瞬間であった。
【教養】を”実用的じゃない”と切り捨てるのは、こと教育においては危険な話だ。なぜかというと・・・。
ところで、あまり好かれない先生に共通する授業内容をご存じだろうか。生徒のボヤキ、論文、アンケート、教育者向けの本、そのすべてに登場する要因とは?
答えは意外かもしれないが、教科書に書いてあるものしかしゃべらないことである。一切脱線せず、ひたすらに読み聞かせるようなタイプの授業。
これは授業というか朗読に近い。集団を前に大きい声で独り言を言っているようなものだと僕は考えており、絶対にそれはしないよう、かなり気を付けているつもりだ。
ただそれは、積極的に雑談へ脱線せよという意味ではなく、例え話を入れたり、受験情報を入れたり、教科書外の補足説明を加えたり、そういうことである。
では、説明のネタはどこから得ればいいのか?それこそ、僕は【教養】というジャンルに該当する本なり動画なりから、実用的とか関係なく何かを学ぶことだと思う。
すとんと腑に落ちる例え話や、論理展開などは、意外とそこから拾えることも多い。それらを丸パクリして授業へ反映させることなど、日常茶飯事だ。
具体例を一つ挙げろと言われれば、羽生善治さんの著書を推す。思うに彼は、抽象的な話を具体的に描写する天才だと思う。(読めばマジでわかる)
こんな風に、ある種かなり気を張ってでも【教養】を得ていかないと、ウリである【説明】が全然アップグレードされていかないのだ。
言うなれば、料理の技術ばかりを練習して、料理用語の勉強をサボっている感じに近い。スキルは成長するかもしれないが、料理もそうかといわれれば微妙だろう。
安河内哲也氏も言っていたが、100を知って初めて1の説明ができるのだ。主観的だが、これはその通りだと感じる。
余談だが、僕が自分なりに中学生の歴史の授業ができるようになったという手ごたえを得た際にやっていたことは、高校日本史の勉強し直しだ。
ネタをストックする努力を怠ることなかれ。小手先のテクばかりでなんとかなるほど、甘い話はどこにもなさそうなのである。
ってことで今日はこの辺で。