精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

30歳にしてようやく、ただしく【自分を探す】方法がわかってきた。

GWに色んなことが重なって10万弱吹っ飛ばしました。まぁ、いいけど・・・・。中元です。

 

はい。宣言通り、毎日チマチマとビジョナリー・カンパニーを読んで、メモに書きだしつつ、今後自分がせねばならないことのリストアップはあらかた完了した折だ。

だが結局、実家でチマチマやったことなので、今日もう一度戻ってから職場に引きこもり、この辺りをイメトレする時間に割こうと考えている。

 

さて。こういう過程を繰り返すうちに、また本に書いてあったヒントを読むうちに、なぜかふと、【自分探し】の意味が急に腑に落ちる瞬間があった。

 

それは確実に、世界のどこかに転がっていく自分を探しに行く謎の旅、とかではなく、世間一般のイメージともまた違う、別の作業を意味するのだと今は思うわけで。

 

よくわからないので、こっから1000文字程度で説明していきもす。

 

 

"自分"はピースという形で存在している説。

 

"じぶん"という存在は、今ここではない別の場所に完全体として存在しており、まだそれを発見できてないだけという認識の人は多い。

 

僕はこれについてはずっと疑いを持っていたが、同時に、本当の”じぶん”はすでに己の中にあるという論理もしっくり来てはいなかった。

 

そんな風に、完全な形で埋まっているような、さながら恐竜の化石のような自分。そんなの、あると思う方が不思議でならない。

 

仮にそれがあるってんなら、今の自我は何だってんだ?という矛盾も否めない。本当の自分を定義するのに、やはり10代後半から今まで丸ごと12年くらい使ってしまった。

 

では、現時点で、その腑に落ちている考え方とは何なのか?ぼちぼち、その答えを書いてみる。

 

それは、"自分"はジグソーパズルのピースのような形で、あちこちに存在しているというものだ。

 

拾い集めて、組み合わせるうちに、段々と見えてくるのが、個性としての己。そう考えている。

 

どういうことか?FFⅩのセリフにもあるが、無限の可能性という言葉を例に考えてみよう。そう考えている限り、何にもなれるが、何にもなれないというジレンマがある。

 

可能性の中の自分は、勉強で名を残したり、スポーツで才能を開かせたり、芸術作品を評価されたり、結婚して幸せに暮らせたり、それこそなんでもできるわけで。

 

ただ同時に、そうやって可能性を残し続ける限り、何をしてる時が幸せで、逆に何は幸せに結びつかないといった経験値が積めないため、自分を簡単に見失うのだ。

 

どの口がほざくという話だが、頭の中だけで考え続けても自分は見つからないし、やみくもに探し歩いても見つからないのが自分なのだろうと考えている。

 

やはり必要なのは、両方だ。ってことで以下、その提案をする。

 

パーツを見つけるには、打ち込んだうえで、続けるか止めるかを決めるって時間を取りまくろう。

 

そういったパーツを見つけるために、何をすればいいのか?多動力にも書いてある教えに近いのだが、一瞬ハマることが最たる近道だと考えている。

 

できれば、様々なジャンルをつまみ食いするくらいでいい。そうやっていろんなことに打ち込んでみて、ハマれば続けて、つまらなければ止める。これが大事だ。

 

例えば僕は未だに、日常生活の1~2割くらいは、そのとき仮でハマっている何かに時間とカネを使っている。ちなみに今は【ストレッチ】を取り入れている。

 

そして結果捨てることになった趣味は、結構多い。将棋もそう、英文の音読もそう、昔やっていたトレッキング的な活動もそう、だ。

 

だがそうやって、盆栽の要らない枝を切るような作業をし続けないと、結果自分という個性には近づけないと考えている。

 

それにそもそも、例えば名のあるYouTuberとかも、初期の動画は現在やっていることと全く内容が違うなんてことも多い。やってくうちに、今のキャラに至ったのだろう。

 

色んなことに手を出してハマる人は、同時に色んなことに飽きて止めている。そうすることで、大量のピースを手に入れて、自分を形成しているのではなかろうか。

 

僕はそう考えているのだが、どないでしょう。多動性がある特性、今は割と感謝している。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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