精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

その学問ができるできないと、その学問で使う思考法ができるできないは、また別の話。

結構大きな相談事をするため、ついに飯に行きましょうと僕から上司に凸撃しました。返答にドキドキ。中元です。

 

はい。最近、以下の本を再読している。【数学】を解説するのではなく、【数学的思考とその重要さ】を説く本であり、数学が糞の僕でも楽しく読めている

 

 こういうのを読むたびに思う。僕は数学の公式を使って大学入試の問題を解くことは苦手だけど、考え方そのものは別にそうでもないよな、と。

 

要するに、数学の問題は解けないが、数学で求められる思考はたぶんできるという、そういう手応えである。でないと、色々残念だ。

 

今日はそんな風に、その学問ができるできないと、その学問で使う思考法ができるできないは、また別の話だよねってことを書いてみたいと思う。

 

 

その知識そのものには、別に意味がないという。

それぞれの科目をなぜ学校で習うのか。まず認識しないといけないのだが、教科書に書かれている知識そのものは、ぶっちゃけ社会に出てからはどうでもいい話だと思う。

 

理由は、調べれば出てくる類のものばかりなので、わざわざ一字一句違わず記憶してい置く必要性に乏しいからだ。

 

だからか、学校の勉強は何の役に立つのかという疑問を生徒が感じるのも、ある種至極ごもっとも、なんなら当然のことであると言える。

 

とはいえ、では学校の勉強そのものが無意味で無価値かと言われれば別問題だ。当時は気づかなかったが、それぞれの科目を通じて練習した思考法は、今でも役立っている

 

例えば、数学。この学問を通じて行っていることは、ルールを理解し、それに応じて知識を組み合わせて、一番合理的な選択をするというものではなかろうか。

 

数学と国語は極めて近いという人もいるが、確かに納得だ。これら2つとも、緻密な論理の積み重ねが要求される学問だからだ。

 

それは、他の科目も同様である。理科の勉強を通じて、仮説➡検証➡実験のプロセスを自然に学べるし、国語を通じて、文章から情報を取り出す練習もできる

 

社会を学べば、ストーリーにして情報を頭に入れていく練習になるし、英語を学習することで、自分の思考をかなり客観視することができるようにもなる

 

知識そのものではなく、求められる知識を吸収しようと試行錯誤することで、普遍的な思考プロセスを習得できる。

 

僕はこう考えているのだが、皆様どうだろうか。

 

その学問ができるできないと、その学問で使う思考法ができるできないは、また別の話。

 

そう考えれば、【勉強ができる人は仕事ができる】という命題が果たしてどこまでその通りなのか、自分事として考えても疑問符が付く

 

ちなみにどちらも僕の知り合いで反例を挙げられるため、少なくともこの時点で両方偽だとわかる。

 

単に、学校の科目はあくまでも補助輪のようなものであり、それが必要なかったり、それが無い方が習得し易かったりする人がいるのが本当のとこなのだろう。

 

理科の語句をほとんど知らなくても、理科に必要な考え方ができる人はいる。逆もまたそうだ。この辺の無関係さは、【ヤバい経済学】を読めば腑に落ちて理解できる。

 

たとえ学校の勉強に苦戦することがあっても、その思考の習得が不可能というところまで否定されたわけではない。そのくらい軽く考えてもいいんじゃないかなと思う。

 

ってことで、今日はこの辺で。

 

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