精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

どんだけ多忙でも、"あれ"さえあれば踏ん張れる。でもそれが無いと、早々に心は折れる。

知らない間に、ぶっちゃけ面倒な管理業務の8割が僕の担当になっていました。いいの?多分来年、あなたがやるんですけど。時限爆弾中元です。

 

はい。今ちょっと、割とカリカリしながらも時間を見繕って記事を書いている。そうでもしないと、マグマが噴火するかの如く、怒り狂いそうである。

 

ここ最近、僕の時間と労働力を雑に奪い取るような仕事の依頼が多い。例えば候補日が3日しかないのに、4コマの個別授業を組んで、といった感じのヤツ。

 

最近習慣として復活させた瞑想による心の筋トレなしには、とっくに堪忍袋の緒が切れるどころか、溜まりまくって爆発していたに違いない。

 

―ただし僕は我ながら理不尽耐性がかなり強いようで、友人に現状を笑いながら話したら、「うつになるか退職してるかな状況じゃね?」と言われたほどである。

 

そんな中でも、僕がなぜ踏ん張れるか。実をいうと、”あれ”があるからである。"あれ"がある限り、どんな多忙状況でも、ぎりぎりで踏ん張れる。

 

・・・逆に言えば、それがないと、心は早々に折れるものだ。実際にそれが奪われたことが何度かあるが、その都度本気で辞職を叩きつけそうになった記憶がある。

 

今日はそんな、あれとかそれに関する話である。

 

 

"あれ"が無ければキツイだけ。

 

ここで言う"あれ"とは、いわゆるコントロールのことだ。人によっては、裁量とか責任という言葉で表現した方が、しっくりくるかもしれない。

 

自分の頑張りが、よくも悪くも成果という形で返ってくる状況下であれば、人は結構耐えられると僕は感じている。

 

実際、出典を示すのがだるいので書きはしないけど、色々な本とかインタビューで、そのようなことを言っている人はいた。

 

どれだけ苦しくても、それが自分の意志というか、自分が選んだ道という感覚があるかないか。僕はこれこそが肝だと感じている。

 

させられる仕事のクソさ。

 

一方、コントロール感が欠如した仕事は、僕はクソだと思う。言い換えれば、自分の意志関係なく、人から押し付けられる仕事だ。

 

特に嫌いなのが、責任を取るという耳さわりのいい言葉と引き換えに、手柄を丸ごと持っていくような仕事である。大抵、前者の約束は嘘だからだ。

 

藤田晋氏も【憂鬱でなければ、仕事じゃない】という本の中で書いていたが、眼前で手柄を持っていかれた際は、やる気も信頼も一気に失ったそうである。

 

とはいえ「そもそも保守的なのが上司だから、それを見越して手を打つのがベター」と説くビジネス書もある手前、それにブーブー言う僕がガキなだけなのかもしれない。

 

しかしながら、そういったかなり独裁的な思考や言動の末路は、ほぼ例外なく悲惨なので、僕は僕自身がされたらいやなこととして、人にはしない所存である。

 

人に仕事を依頼するのなら、何のために行うのかくらい説明しろ、と。作業の性質によっては、手柄を寄与させる権利もセットにしろ、と。

 

こういった基本的なことを述べる本が結局のところ大人気なのは、それができていない人が多いことと、それによって苦しんでいる人の多さを示している気がしてならない。

 

コントロールできている感覚が奪われているとき、たぶんあなたの心には着々と猛毒がしみ込んでいる。

 

今一度、自分がどこまで権限を持てているか、責任を負わされているか、じっくりと考えてみてはどうだろうか。

 

ということで、今日はいつもよりやや短いのだが、この辺で終わりとする。

 

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