精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

【同業者向け】大体の授業には、「学び」の本質が含まれてない説。

実家にいるときは全然家から出ないのですごく不安になるのですが、読書とかブログとかやってたら落ち着く、天性のワーカホリック中元です。

 

はい。最近は自問自答を強く説く本にいくつも出会った結果、過去に例がないくらい、内省が楽しくなっている。(ここだけ切り取るとヤベェヤツだが)

 

そして今自分の中でホットなのが、「点を上げる授業とは何か」というテーマである。常日頃考えていることではあるが、深堀したかといわれると怪しいお題。

 

これについて仮説なり問いなりをぶつけて、調べて、検証する。もっとも、夏季休業中てあるため検証はイメトレに終始しており、その精度は低いのだけれど・・。

 

このサイクルを繰り返した結果、ちょっと恐ろしい仮説にたどりついてしまった。それが、「大体の授業には『学び』の本質が含まれていないのでは?」というものだ。

 

それが含まれていない授業など、講師の独り言を全員に聞かせているのと同様な無責任な時間になる。怖すぎる。

 

ってことで今日はその本質と、それを踏まえた授業づくりのヒント(になるかもしれない何か)を書いておこうと思う。

 

 

語源から「学び」を学ぶ。

 

佐渡島庸平氏の影響で、知りたいテーマがあると、まずはその語句そのものを調べることが増えた。だから今回も、そうしてみる。

 

「学び」について辞書で引くと、こんな定義が出てくる。

 

  1.  学ぶこと。学問。修業。

  1.  まね。

 

尚、「学ぶ」は元々「真似ぶ」という言葉を語源に持つという説がすごく有名だが、そもそもどっちの語句が先かははっきりしないのが本当のところらしい。

extraordinary.cloud

 

それを差し引いても、”学び”の意味に、最初から「まね」が入っていることには少し驚いた。どちらかといえば類語と思っていたのだが、ほぼ同じ意味らしい。

 

ここでふと気になったので、「習う」の意味も調べてみた。すると、こっちの方が充実しており、またちょっと意外であった。

 

  1.  教わったことを繰り返し練習して身につける。けいこする。「夜ふけに一人でダンスのステップを―・う」

  1.  知識や技術などの教えを受ける。教わる。学ぶ。「父から将棋を―・う」「中学で―・った先生」

  1.  経験を積んで、なれる。習慣となる。

    1. 「心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざも―・はざりければ」〈伊勢・四一〉

  1.  慣れ親しむ。

    1. 「かく久しく遊び聞こえて―・ひ奉れり」〈竹取

 

これら2つを分けて考えると、「学び」は知識の吸収という意味合いが強く、「習う」はそれを体得するという意味合いがあるように感じる。

 

そしてこの二語を繋げて作られた「学習」という語句の本意は、「先人の知識を真似つつ、練習を繰り返すことで、それを自分の物にしていく」という風に思えてきた。

 

では、この要素が自分の授業にあるだろうか?そうやって問いを差し向けた結果、僕の授業に決定的に欠けているものに気付いたのだ。

 

続いては項を変えて、それについて説明してみよう。

 

一方通行な説明に陥っていないか?

 

それは、「真似させる」という部分である。僕はもちろん説明はするし、演習の時間も絶対に取る。しかしよく考えれば、僕の指導を真似させる時間になってないよな、と。

 

教える。やらせる。それだけでいいのならば、例えばアスリートのコーチは不要ではないか。ふとそんなことを思った。

 

そういえば、山本五十六の有名な言葉に、こんなのがある。

 

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

 

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

 

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

 

改めてこの言葉を読むと、現代でも十分に、塾や学校の指導で普遍的に通用するヒントに気付く。

 

「やってみせ」とは、講師や教員の"説明"に当たると思う。単元のあらましを実際に伝え、そのカラクリを紐解いていく。

 

そして、「させてみせ」というのは、いわば”演習”の時間だ。各人が問題演習に取り組むあの時間である。

 

では、途中にある「言って聞かせて」とは何なのか?僕は発問かと思ったが、実際はもう少し深い部分にありそうだ。

 

今のところの暫定的な答えは、「一緒に解く」ことだと考えている。あくまで説明とは、知識やテクニックの"紹介"に過ぎない。

 

だからこそ、それを使えば解けることを再確認させ、また覚え違いが無いかどうかも、この時点でチェックしておく

 

もちろんこれが、僕が僕の授業に欠けていると悟った「真似る」の正体かどうかは別だ。むしろ問いの入り口に立っただけなので、ここからが勝負である。

 

しかしこの仮説に立つと、それを補強する実例が、記憶の奥底からぽこぽこと出てくるので驚いている。

 

例えば塾で有名なテキスト【フォレスタ】は、そもそも使い方の時点で、"一緒に解く≒真似させる"という部分が設計されているほどだ。

 

そう考えれば、今までの授業は徹底して不完全だったと落ち込む部分もあるし、まだまだ伸ばせるところもあるよなと前向きになるところもある。

 

ただ、僕自身は早ければ数年で講師からは引退するつもりなので、しっかりと知見を集めた後は、次の人たちに手渡していく所存である。

 

―ということで、今日もまた散文的ではあったけれど、この辺で筆を置くことにする。

 

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