精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

知識の詰め込みは、創造性を育むのか、はたまた殺すのか。

近く、勇気を出して高価な睡眠スコア計測グッズを買います。今はどれにしようかを検討している最中ですね。中元です。

 

はい。またしても作文の話になるのだが、自分の意見を書くことに難儀する生徒は、まだまだ非常に多い

 

小5・6はもちろんだが、中3でも作文ではなく手紙を書いたり、極論をもって来たり、そもそも一切手を付けられなかったり、色々なケースがある。

 

この辺の現状は、いわゆる読解力とか思考力とか国語力といったホットなトピックと密接に結びついているので、国語を教える身としては、永遠に考えるべきテーマである。

 

ということで今日は、その克服方法のヒントになるかもしれないあれやこれやを、つらつらと記事にまとめてみようと思う。

 

 

"自分の意見"をゼロから生もうとする愚かさ。

 

まず考えたのは、そもそも僕自身がいつから、自分の意見を表現できるようになったかという話である。

 

高校生の頃は「嫌い」という言葉すら、他者を拒絶するワードとして使ってこなかったくらい、病的に自尊心が無かった僕だ。

 

また、今の仕事に就いてすぐの頃も、そういった自意識が邪魔をして、会議等の場でも、ロクな意見を言えていなかったように思う。

 

しかし今は、基本質問には即答するし、「好き・嫌い」という立場をはっきり言っちゃうことも、先輩へ意見することも、頑張ればできなくもない。

 

一体いつからこれができるようになったのか。心当たりがあるのは、英検1級二次試験だ。その勉強を通じて、僕は大量の【意見】のネタを頭に叩き込むことになった。

 

今思えば、これが効いたのでは、と。

 

そもそも、論理的に組み立てられた他者の意見を知る機会など、意識的にそういう場に行ったり、記事を読んだりしなければ、皆無に近いのではなかろうか。

 

例えば学校における井戸端会議でそんな話し方をすれば「くどい」と嫌がられるだろう。また、SNSを開けば、飛び交うのは感情論かつ極論が目立つ。

 

そして人間はそもそも、自分の立場を肯定する意見を信じやすい、集めやすいバイアスを持っている。そういったあれこれを考えると、生徒たちの課題が浮き彫りになる。

 

前々から感じていることだが、生徒たちに足りないのはまず、様々な種類の【意見】及びその型を知る機会と、それを練習する時間ではないだろうか。

 

例えば、「制服という制度についてどう思うか?」と聞かれたら、基本的には「どうでもいい」と答えてはならない、ということも、知らない生徒はまぁまぁいる

 

仮に「はい・いいえ」が言えていても、理由に当たることが閃かないとか、全然関係ない話題を引っ張ってきて文字数を埋めるとか、そういうのが大半だ。

 

一時期は失礼なことに「マジで国語力が無いのかな」と考えていたが、今はむしろ、「意見を読む機会がなかったんだな」と同情的に捉えるよう意識している。

 

【観察力の鍛え方】という本にも書いてあるが、他者の意見をしっかりと"参考"にすることは、自分の想いを表現する格好のヒントになる

 

例えば、「制服は反対。だって私服でいきたいじゃん」という意見に対し、自分は直感的に賛成したか、反対したか

 

賛成であれば、「なるほど、自分は制服より私服の方がいいと思っているんだ」という無意識に気付くことができる。

 

逆に反対であれば、これまた「へぇ、俺は制服の方がいいと感じているんだ」というメタに意識が向く。

 

一度問いか仮説を持つことができれば、後はそれを考え抜くことで、一つの引き出しが作られる。その引き出しの数が増えることで、表現できる意見もまた、増える。

 

意味もわからないまま丸暗記するのは考え物だが、僕は作文を書く力を強化しようと思ったら、誰かの意見をたくさん読むことが大事だと感じている。

 

残念ながら、それに特化した教材を、あまり僕は見ない。仕方ないので、コツコツと自分でネタを掻き集めて、いずれプリントとして生徒に配ってみようと思う。

 

知識の詰め込みは、創造性を育むのか、はたまた殺すのか。

 

僕が受けてきた「ゆとり教育」というカリキュラムは、ある種の暗記偏重・詰め込み型の教育に対する不満等を受けて作られたという印象がある。

 

そして今は、「ゆとり教育」というカリキュラムに対する揺り戻しなのか、それまで以上に密な知識の詰め込みを要するようなそれになっている気がしている。

 

こういった"詰め込み"というスタンスは、生徒に創造性という伸びしろを残さないからよくないものなのか、それとも逆に、自由な発想を生むのか、まだわからない

 

ただ、自分の意見を言えないとか、考えを書けないといった悩みの原因の一つには、発信する力の有無以前に、発信に用いる知識がないことが大きいと思っている。

 

そう考えると、真に創造性を殺すのは知識の詰め込みではなく、知識を詰め込むことが絶対的な正解という風になっているシステムの方だと思えてくるわけで。

 

今は色々と過渡期であり、知っていることそのものに価値があるとかないとか、そういうパラダイムシフトが起きそうなところである。

 

知識を求めながらも、その吸収が目的にならないように俯瞰する。似た話、【大局観】にも書いてあったなぁ。

 

講師という立場上、色々と胃が痛くなりそうな話ではあるが、これからもほどほどに思索には耽ってみたいと思う。

 

では今日はこの辺で。

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村