精神年齢9歳講師のブログ

校舎での出来事、読んだ本、つまりインプットを全てアウトプットに変える実験場、的な。

楽しい”問い”と、メンタルを病む"問い"の差はなにか?

生まれて初めて唐揚げのにおいで発狂しそうになった、ローファットダイエット中の中元です。

 

はい。↓の本に出合ってからというもの、すっかり"問い"中毒になっている。様々な事象や他者のリアクションに対し、「なぜ?」と問うことがクセづいてしまったのだ。

―しかし、そうやって色んなことをあれこれ考えて、内面に目を向ける時間が増えた今、そこにはある気をつけねばならないポイントが存在すると気が付いた。

 

そのポイントを意識しておかないと、多分メンタル弱い人は、ガンガン自分を追い詰めて、心が弱っていくだろうとさえ思った。

 

今日はその気をつけねばならないポイントについて、おまけを添えて述べてみる。

 

 

よい【観察】に必須の心掛け。

 

よい【観察】や"問い"に必要なポイントとは、徹底して客観的な目線である。これは、著者である佐渡島庸平氏も、前提の中で語っている。

 

いい観察は、ある主体が、物事に対して仮説をもちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気づき、仮説の更新を促す。

 

r25.jp

 

ではなぜ、客観性が大切なのか?これは国語の読解問題(特に物語)を解いているとわかるが、主観的に読んだ瞬間、自分が思った通りにしか解釈できなくなるためだ。

 

例えば、「笑っている人は無条件で嬉しい」という価値観の人から見れば、以下のイラストは【喜】を描いたものに映るはずだ。

オルビア「あなた達の生きる未来を私達があきらめるわけにはいかないっ」:ONE PIECE〜ワンピースの画像付名言集〜ネタバレ注意!


―今回は極端な例を紹介したが、主観的とはそれくらい、他の可能性を完全に排除してしまう側面もあるし、また時には、強い自責へと転じる危険性も孕んでいるのだ。

 

特にそれは、他者の自分に対する敵意を含んだ言動について"問い"を持つと、ぬたりと立ち込めてくることが多い。

 

例えば、"上司に強めの口調で叱責された"という状況を考える。そこに"問い"を持つと、大抵は「なぜ上司に怒られたのだろう」という風になる。

 

ここでもし主観的になってしまうと、「きっと私が至らぬことをしたのだろう」という仮説が出てくるのが自然となる。

 

だが、ここからが脳の性質の悪いところだ。主観的になっている限り、その説を補強する証拠ばかりが、頭のあちこちから引っ張り出されることになる

 

「そういえば、上司の前で言葉遣いがおざなりになっていたかもしれない」「仕事をチンタラとやっていたかもしれない」と、こんな風に。

 

結果、「自分が一方的な悪である」ことがどんどんと補強され、どんどんと自分をぐりぐりと抉るような思考がスタートする。

 

これこそ、有名な反芻思考の始まりであると、今なら考えられる。だからこそ、そもそもこういうループに至らぬよう、客観性を死守することが"問い"には絶対必要なのだ。

 

―逆に言えば、主観性さえ排除できれば、基本的にはネガティブな事象に対する"問い"も、どこか楽しく深めることができるわけで。

 

続いてはその具体例を書いてみる。

 

自分を主語にせず、類似を探す。

 

今日たまたま、フォローしているYouTuberが、アンチからの的外れなコメントに苦言を呈している記事を読んだ。

 

すごく乱暴に言うと、ある結果に対し、ズルをしたと決めつけて、「ズルするようになったか・・」といった達観ぶったコメントをしている人について、であった。

 

僕はこういうのを読むと過去の対人関係における嫌な記憶が、自他問わず蘇ってくるので、徹底してカットしてきたのだが・・。

 

今回は、客観性を得る練習も兼ねて、他人事として"問い"を投げることに決めた。だからまず、「何が得たくて、こういうことを言うのだろう?」と、考えた。

 

ただし、感情論を一切混ぜないよう気を付けた。感情的になると、途端に主観的な視点に吹っ切れてしまい、ネガティブ思考に呑まれるからだ。

 

だからどうしたかというと、このテーマを抽象的に考えて、そのうえで似た事例を探してみたという次第。

 

すると閃いたのは、「飼い猫を怒らせて、手を噛まれて笑ってる飼い主に似てる」というものだ。これに似たメンタルが働いているのかもしれない。

 

となると、言っている側は恐らく、「これをいうとムカつかれる」とわかっててそんなコメントを書いて、それによる怒りなどの反応を期待しているのではなかろうか。

 

何かしらの反応こそ、こういうコメントを送ってくる輩が求めている最大の報酬。こう思うと、方々で「無視した方がいいね」というアドバイスが来る理由も腑に落ちた。

 

そう考えると、「自分にしょうもないマウントを取ってくる中学生の感じにも似ているな」とも思えてきて、腹を立てることさえアホくさいという気になる。

 

さらに言うと、「中学生の感じに似ているなら、期待してる反応を避けつつ、適当に返しておけばいいのでは」という仮説にもたどり着いた

 

・・・そうやって推論ばっかりして遊んでいると、気づけばアンチコメントを見たことによる不快な感情は、綺麗にどっかへ消え去っていた

 

うすうす感じていたことだが、僕は【意識的な無視】がまだまだ苦手なようである。だからこそ逆に、ネガティブを客観的に分析して遊ぶ方が、性に合っているらしい。

 

主観的に考え事をすると心を病むが、客観的に考え事をすると、仮説を閃くか、あるいは段々どうでもよくなってくる。

 

後者の方が圧倒的に健全だと思うのだが、いかがだろうか。

 

ってことで今日はこの辺で。

 

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