精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

【同業者向け】『ペルソナ』という思考法は、講師に必須のスキルっぽいよ。

気付けば酒のコーナーを素通りできるほどに、アルコール断ちが進んでいる中元です。その代わり最近は脂が恋しい。毒を以て毒を制す?

 

はい。僕が受け持っているクラスに一つ、学力差がとても激しいところがある。最上位と最下位で、定期テストの差が250点も離れているほどだ。(もちろん五科目)

 

特にその中でも下位集団は、悲しいかな、狙ってそうやってんのじゃないかというほど学習態度も不真面目である。寝たり落書きしたり、ちなみに通知表も2だらけだ。

 

ところどころ学習障害の兆候も見えているので、個別授業に移行した方がいいと思っているのだが、ご家庭はそれでも5科目ができる集団に置きたいらしい。

 

このあたりのジレンマは結構強い。ある種、"まともに"立ち向かうと、メンタルに悪影響が出ること必須だ。

 

徹底して低学力層に合わせたら、多分上位層が消える。上位層に合わせれば、低学力層からクレームが来る。板挟みっちゃ板挟みである。

 

実際それもあって僕は結構悩んだ時期があるのだが、今はサッパリ、割り切っている。そのときに意識したのは、『ペルソナ』という考え方だ。

 

今日はそんなお話をば。

 

 

仮面をかぶろう。

 

『ペルソナ』とは、元々舞台の俳優が頭から被る仮面を意味するラテン語であるそうだ。そこから転じて、「人物・性格・個人・人格」という意味に派生したらしい。

 

ところで、まだ読んでいないのだが、色々な人が推奨する本に、こんなのがある。↓

社会人大学人見知り学部にも登場していた気がするが、簡単に言えば、「人は環境に応じて、表現させる自己を変える」というものだ。

 

例えば、家族に見せるつっけんどんな態度を、見ず知らずの他者には出さないだろう。その逆もしかり。そんな話だ。

 

そのどれかが本当の自分なのではなく、そのどれもが、数多ある自分の個性の一つ一つ。そんな風に解釈している。

 

この二つの考え方を統合すると、「意図的に、場に相応しい人格・個性を設計し表現する」ことも不可能ではない、何なら自然なことにも思えてくる

 

実際、そうすることを『ペルソナ(≒仮面)を被る』と形容する人も多い。それこそ、最近読んだ「リーダーの仮面」は、まさにこれを反映したタイトルといえる。

 

実際、非常なストレスを感じて然るべき場面で平気な人は、この戦略を採っていることが多い印象だ。

 

逆に、学校の教員などに多いのだが、素の自分をさらけ出して、責任感強く生徒と相対する人ほど、重責に負けて潰れていく印象がある。本当に悲しい話だ。

 

ではなぜ、『ペルソナ』を被ることで、自分の心を守れるのだろうか。それは、自分に飛んできた誹謗中傷を受け流すことが可能になるからである。

 

「なんか言われたけど、これは俺が意図的に作った人格に対してだから、どうでもいっか」という話だ。他人事として考えるためには、本心は邪魔なのである。

 

・・・ところで、僕自身この話は、実をいうと21歳の頃には知っていた。しかし、それをやろうとしても、どうしてもそれを腑に落とすことができなかった過去がある。

 

意図的に演じた自分とはいえ、なんか言われたらそりゃ素直に傷つく。クヨクヨする。面白くない。なら最初から本心剥き出しでやっても同じだ。そんな風に。

 

その理由は今思えば簡単で、「思考」と「現実」を区別できていなかったからである。要は、「悲観的な妄想」と「実際に起きたこと」の違いが、わかっていなかったのだ

 

例えば、とある人に激しく怒られたとする。怒りの感情を向けられたことは「現実」だし、「実際に起きたこと」だ。

 

しかし、そこに上乗せして、「あの人は俺のことを憎んでいるだろう」といった感情を乗せると、それは「思考」もとい、「悲観的な妄想」となる。

 

これら二つは文字に起こすと明確に違いが判るのだが、脳内で処理すると、意外なほどに、ごちゃごちゃとなる。

 

そしてこれらを混同すると、ペルソナへのダメージを無視できず、自分事として吸収してしまうというわけだ。これでは、ペルソナの利点が、まるで無い。

 

そういうのもあって、『ペルソナ』が腑に落ちなかった、というわけだ。

 

―しかし最近、自分の認知の歪みを正すために始めたあるトレーニングによって、この辺りの切り分けが急激に上手になっている実感がある。

 

今なら何の抵抗もなく、顔だけじゃなく心にもマスクを装着できそうだ。ということで続いては、そのトレーニングについて、理屈含めて紹介しよう。

 

内なるサイコパスに判断してもらおう。

 

僕が始めたトレーニングは、自動思考キャッチトレーニングというものだ。

yuchrszk.blogspot.com

 

乱暴に言えば、ポジティブ・ネガティブ問わず、自分の脳内に何かしらの感情が発生した際、それを詳らかに分析するというものだ。

 

墨で塗りつぶしながら紹介すると、こんな風になる↓

 

詳しいやり方は先ほど紹介したサイトを参考にしてほしいのだが、これを繰り返すことで、はじめて3日目なのに、だいぶ自分を客観視できるようになってきた。

 

ちなみに、一番下の、「この悩みを第三者に相談されたらどう答えるか」の枠は、自分で勝手に追加したのだが、結構これイイ

 

ここを練習すると、自分のことも他人ごととしてジャッジする感覚がつかめてくる。つまり、感情を割引いた、合理的判断のノリがわかってくるのだ。

 

僕はこれを勝手に、サイコパスの人に悩みを相談して回答を貰う」という風なシミュレーションで行っている

 

内なるサイコパスのお悩み相談室てな具合だ。そして出た答えには、唯々諾々と従えばいい。新たな課題が出たら、また脳内のサイコパスに相談なのだ。

 

そしてこの際は、本心かどうか、自分が直感でどう感じたかは二の次だ。だからこそ、最初のペルソナの話に戻る

 

この場に相応しい仮面を与えてもらい、それを装備し演じ切る。もちろんこれも行き過ぎれば、解離性同一性障害になるリスクもあるが、それはちょっと考えすぎだ。

 

例えば、好きな小説・漫画・ドラマ・ゲームのキャラでサイコパスっぽい人なら、なんて答えるかを考えてみてもいい。

 

大事なのは客観視をすることなので、それさえできれば、何でもいいのだ。ペルソナを調達するためにも、他人事として、目先の課題に向き合おう。

 

おわりに:やはり講師に必須のスキルは、ある種の【サイコパシー】だと思う。どうしても、そう思う。

ところで、このブログ内では、この記事のアクセス数が多い。

jukukoshinohibi.hatenadiary.com

 

書いたのは2年以上前なのだが、そのときに感じていたことは今でも間違っていないと思っているし、どうやら一般的な解釈もそうであるらしい。

 

教員という仕事は尊い。だが尊いからこそ、自衛の術を持たないまま漕ぎ出る人が多い。そんな装備では、現実の強大な負の部分に押しつぶされて夢が潰えてしまう。

 

大丈夫じゃない、問題だ。そういう具合である。

 

僕もまだまだ客観視のためのトレーニングを重ね、場面にあったペルソナを把握し、都度冷静なジャッジができる自分を目指していきたいと思う。

 

ということで今日はこの辺で。

 

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